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人生の最終段階における医療における意向の変化 [終末期医療]

 2015年3月に改訂された「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」について、「一度方針を決定した後も、繰り返し話し合って方針を見直していくことが重要である」「在宅でのガイドライン利用を促進する」という観点で見直す―といった方針が、2017年12月22日に開催された「人生の最終段階における医療の普及・啓発の在り方に関する検討会」で了承されましたが、そうしたことの重要性については、私が2011年に報告した論文『事前指示書と終末期医療─療養病床転棟時における終末期意向の変化調査』(2011年2月19日号日本医事新報No.4530 107-110)において指摘したことです。
 参考になる部分もあるかと思いますので論文をお読みくださいね。

時論-1.jpg
事前指示書と終末期医療─療養病床転棟時における終末期意向の変化調査
 
目的
 日本尊厳死協会が1976年1月発足して、既に30年以上の月日が流れているが、現在の会員数は全国で 12.5万人という状況で、普及しているとは言い難い。
 日本尊厳死協会の尊厳死の宣言書(リビング・ウイル Living Will)の提示があれば、本人の意向に沿った終末期を実現することは概ね可能であるが、現実には、ほとんどの入院患者さんは、リビング・ウイルを所有していない。
 本人の意向を尊重するため、独自の事前指示書を作成し、本人・家族の意向を調べている医療機関もある。
 榊原白鳳病院は、一般病床50床と療養病床151床からなる201床の病院である。新入院患者は、基本的には一般病床に入院し、病状が安定した時点で療養病床に転棟する。
 一般病床入院時に、家族の意向を聞き取り調査しており、療養病床に転棟してからも、基本的には入院時の事前指示書に記載された意向に沿って終末期の対応をしてきた。
 しかし入院後、時間の経過とともに、家族も冷静な判断ができる時間的・精神的余裕が出てくるためか、入院時とは意向が変わってくることが多々ある
 そこで今回、転棟時に改めて事前指示書を配布し、家族の意向変化の実態を調べることを目的として調査を行った。

方法
 榊原白鳳病院4階西一般病床から3階療養病床に転棟した際に、可及的速やかに終末期の事前指示書を配布し、終末期に対する意向の変化を調査した。
 3階療養病床転棟後に配布した事前指示書は、国立長寿医療センターで使用されている事前指示書1)を一部改変したもの(図)を使用した。
 気管内挿管に関しては、急変時に救命・蘇生目的で挿管する場合と、徐々に終末期を迎え延命目的で挿管する場合では、目的・意義が違うことを説明したうえで、「救命目的の挿管であれば望むが、延命目的の挿管であれば希望しない」という意向の場合には、自由記載欄にその旨の記載をするよう記した。
 今回のアンケート調査に際しては、心臓マッサージ、気管内挿管、抗生物質などの医学用語の理解が不十分で、アンケート内容が持つ意味を回答者が正確に判断できないという問題点を解消するため、アンケートに関連した医学用語の解説書も添えて調査を実施した。

結果
 アンケート調査は2010年4月~9月まで6カ月間実施した。37例に調査票を配布し、回答が得られたのは18例であった(18例の一般病床平均在院日数:81日)。回答者は全例、家族である。18例の患者の年齢は、64~99歳(平均76.7歳)で、男性が7例、女性が11例である。患者の基礎疾患は、脳卒中後遺症による準終末期11例、認知症による準終末期2例、肺炎などの全身疾患による準終末期4例、癌による準終末期1例である。
 終末期に対する意向の変化に関しては、意向の変化はなかったケースが半数の9例であった。入院当初希望していたCPR(心肺蘇生)を希望しなくなったケースが5例あった。また入院当初は、「気管内挿管は希望しない」と回答していたケースで、「延命目的の挿管であれば希望しないが、救命目的の気管内挿管であれば希望する」と正確な意向が確認できたケースが3例あった。
 また、入院当初は「全てのCPRを望まない」と回答していたにも関わらず、療養病床転棟時の調査では「全てのCPRを希望する」と回答が正反対に変化したケースが1例あった
 また、経管栄養に関する意向調査も実施した。経管栄養を既に実施中にも関わらず、「して欲しくない」と回答されたケースが3例あった。

結論および考察
 入院時の慌ただしい状況の中で、しかも医学知識が不十分であるにも関わらず、終末期の意向を正確に医療機関側に伝えることは、患者および家族側からすると非常に困難な課題と思われる。また、治療目的でに入院したのに、いきなり終末期の事前指示書を渡されることに対して憤慨する患者・家族もいる。
 一方、療養病床に転棟する時期には、比較的冷静な判断ができるようになってきており、詳細な事前指示書による意向調査も実施しやすい。入院時と転棟時の2段階方式の事前指示書調査により、意向の変化を確認することが可能となった。
 また、挿管、気管切開という医学用語がきちんと理解されておらず、そのために入院当初は「挿管しない」と回答していたが、用語を説明したうえで問い直すと、「救命のための挿管は希望するが、延命のための挿管・人工呼吸器は希望しない」という意向であったことが判明したケースもあった。患者家族から延命利害を侵害されたと提訴されることを未然に防ぐためにも2)、意向をきめ細やかに確認する必要があると思われる。
 どのような終末期を迎えたいのかは、個々の死生観によって左右され、多種多様である。日本では、日本尊厳死協会が発足して既に30年以上の月日が流れているが、尊厳死の宣言書(リビング・ウイル)は普及しているとは言い難いのが現状である。
 そのような状況の中で注目されているものに、「レット・ミー・ディサイド(自分で決める自分の医療:LMD)」が挙げられる。LMDは、カナダのウィリアム・モーロイ博士が考案したもので、アメリカやカナダで、「Advance Directive(事前の指示書)」と呼ばれているものの1つの形態である。1994年頃から日本に取り入れられ普及しつつある。
 LMDの事前指示書では、「回復可能な状態」と「回復不可能な状態」とに分けて、それぞれ治療法を選択肢から選ぶ。選択肢は、「緩和ケア」、「限定治療」、「外科的治療」、「集中治療」の4つである。例えば、「回復可能ならば『集中治療』を、回復不可能ならば『緩和ケア』を望む」というように指定する。事前指示書の作成に当たっては、医師などから説明を受けた後、2人の代理人(家族、友人など)と一緒に作成する。その後、通常はかかりつけ医に預けておくという手法である3)。
 米国で既に百万人以上の人々が利用している「Five Wishes」を参考にして、日本の事情に合わせて作成された「私の四つのお願い」(http://www1.ocn.ne.jp/~mbt/)は、枠内(□)に○をするか、×をするだけ、あるいは数行の文章を書くだけで、非常に使い勝手が良いと思われる4)。
 今回は一般病床から療養病床に転棟した際に、意識調査を実施したが、療養病床に長く入院している方では、病状の変化を繰り返すうちに、終末期に対する意向が変化してくることは十分に想定される。病状の大きな変化に際しては、改めて意向を確認する細やかな配慮が必要である。
 笠間は、医学用語の理解度調査で、「炎症」・「抗生物質」などの身近な医学用語であっても患者の理解率は50%前後と低率であったことを報告している5)。そのため今回の調査に際しては、心臓マッサージ、気管内挿管、抗生物質などの医学用語の理解が不十分なために意向を正確に伝えられないという問題点を解消するため、事前指示書に記載されている医学用語の解説書も添えて調査を実施した。
 死生観を積み上げていく過程は、生きることに対し正面から向き合う状況を生み出し、生きることの尊さを知る良い機会になり得る。石川県では、高齢者の死生観とケアのあり方について理解を深めるため、平成15年度に「死生観とケア」研究会を立ち上げ、月1回程度、公開研究会を実施している。水島らは、「看取りの場をどこにするのか、どういう最期を迎えたいのかということは、症状の変化や関わりの中で変化しうるため、その都度確認が必要。本人・家族の気持ちの変化を敏感に感じ取り、受け止める姿勢が大切である」と述べている6)。
 経管栄養に関する意向調査では、経管栄養を既に実施中にも関わらず、「して欲しくない」と回答されたケースが3例あった。回答の真意は確認していないため理由は不明であるが、経管栄養を導入したことに対しての後悔の念が窺える。
 日本認知症学会では、認知症患者に対する経管栄養導入の是非そのものも議論される問題となってきている(7)(8)(9) 。
 ただ理由はともあれ、胃瘻を導入した以上は、誤嚥防止に最大限の努力が払われる。誤嚥対策においては様々な工夫がされており、代表的なものは半固形栄養材の導入であるが、経腸栄養材投与前のトロミ白湯注入なども有効性が示唆されている(10)。
 脳卒中の急性期医療の現場においては、救命は何よりも優先される課題である。救命のための急性期医療の結果として、「延命のための治療」に連続的に移行していくというケースは多数存在する。
 認知症終末期における胃瘻の是非が議論されているが、認知症および老衰においても、適切な栄養管理により体調が回復し、いったんは元気さを取り戻すケースは散見される。一律に、認知症における胃瘻導入を「無駄な終末期医療」と位置づけることには問題がある。
 高齢者終末期における栄養摂取方法と平均余命に関する調査によれば(西円山病院)、平均余命は、経管栄養選択症例では827±576日、中心静脈栄養選択症例(経管栄養から中心静脈栄養に変更した症例および中心静脈栄養のみの症例)では196±231日、人工栄養非選択症例(末梢静脈栄養)では60±40日であった11)。
 経管栄養の導入により、末梢からの点滴に比べて、平均的には767日(約2年1カ月)程度延命できることをこの数字は示している。
 事前指示書が有用である理由に関しては、以下のように報告されている12)。
①患者にとっては、自己決定の権利を尊重することになる。
②家族にとっては、根拠なく憶測することの心理的苦悩・感情的苦痛の軽減になる。
③医療者にとっては、事前指示の有無によって法的責任の程度が異なる。すなわち(コミュニケーションが不十分であったり、適切な意思決定のプロセスを経ていない場合)事前指示がない場合には法的責任が生ずる場合もありうる。
④事前指示はコミュニケーションツールとなりうる。
 
 わが国には終末期医療倫理に関する法律が少なく、明確な法的基準がない。また、最高裁判所も、未だしっかりとした「安楽死」・「尊厳死」・「治療の中止」が適法と認められる要件を示した歴史がない13)。このような状況においては、ガイドラインなど法的ペナルティーのない社会的規範に行動が拘束される部分が大きいのが現状である。
 最高裁判所の判例はないが、地方裁判所の判例としては1995年3月に横浜地方裁判所で出された「東海大学附属病院事件」があり、我が国における終末期医療に関する考え方の一つの基準となっている14)。
 この判決では、「安楽死4要件」(違法性阻却事由)が示された。本人意思の明示を求めたことが最も重要な部分である。
①耐え難い肉体的苦痛の存在
②死期の切迫
③推定的なものでは足りない、患者の明示の意思表示の存在
④肉体的苦痛の除去、緩和のための他の代替的手段の不存在
 判決では他に、「治療行為の中止」(いわゆる尊厳死)の適法要件の概略に関しても示された。
①回復の見込みのない末期状態
②患者の推定的意思(事前の文書・口頭、家族の意思から本人の意思を推定)の存在

あとがき
 私の父は平成22年10月21日に87歳で亡くなった。亡くなる1年前に私は父から事前指示書を渡された。事前指示書には、「私の病気が不治の状態であり、死期が迫っていると診断された場合、ただ死期を延ばすだけの延命措置は一切お断り致します。」と記載してあった。
 父は自宅での最期を望んでいた。持病の呼吸器疾患に加えて、老衰と軽度の認知障害も来しているものの、治療すればまだ回復の可能性があると私は考え、入院治療を選択し、「在宅療養のために必要であれば胃瘻も検討下さい」と担当医師にお願いした。入院一週間後に父は息を引き取った。詳細な経緯は、平成23年1月18日~1月23日付朝日新聞「患者を生きる」にて報道されている。
 老衰や認知症などの非がん疾患においては、予後予測が困難であり終末期の評価方法が未確立であるのが現状である。
 アルツハイマー病(AD)末期の定義としては、全米ホスピス緩和ケア協会(National Hospice and Palliative Care Organization:NHPCO)の基準があり、以下の報告がされている15)。
 独歩不能・着脱衣介助・入浴介助・尿/便失禁・意思伝達不能(1日に1、2個以下しか意味のある単語を話せない)のすべてを満たす患者で、誤嚥性肺炎・上部尿路感染症(腎盂腎炎)・敗血症・ステージⅢ・Ⅳの深い褥瘡・繰り返す発熱・6カ月で10%以上の体重減少などの認知症に関連した症状の1つ以上を認めた場合に予後6カ月以内と判断し、ホスピスプログラムに導入の時期である。
 しかし、この基準に該当した患者さんの実際の平均生存期間は6.9カ月であり、38%が6カ月を超えて生存していたことから、より正確な基準が求められているのが現状である。
 認知症は今後も増加の一途を辿る。認知症終末期の定義を明確にし、然るべき指針を定めていくことが今求められている急務の課題ではなかろうか。

謝辞
 国立長寿医療センター版事前指示書は、国立長寿医療センター遠藤英俊先生より使用許可を頂きました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。

参考文献
(1)遠藤英俊:高齢者医療総合診療ガイド(担当医必携Q&A).株式会社じほう,東京,2008,pp74-75.
(2)大城 孟:外科治療 80:1248-1252,1999.
(3)恩田裕之:安楽死と末期医療. 国立国会図書館 ISSUE BRIEF NUMBER,472:1-10,2005.
(4)箕岡真子:Dementia Japan 24:169-176,2010.
(5)笠間 睦:日本医事新報No3912:73-77,1999.
(6)水島ゆかり、他:石川看護雑誌 2:7-13,2005.
(7)宮本礼子、他:Dementia Japan 23:64-65,2009.
(8)横田 修、他:Dementia Japan 24:65-66,2010.
(9)宮本礼子、他:Dementia Japan 24:67-68,2010.
(10)笠間 睦、他:日本医事新報No4520:60-64,2010.
(11)宮岸隆司、他:日本老年医学会雑誌 44:219-223,2007.
(12)箕岡真子:日本医事新報No4500:97-99,2010.
(13)竹中郁夫:日本医事新報第No4505:81-82,2010年.
(14)http://www.mhlw.go.jp/shingi/2007/01/dl/s0111-2c.pdf
(15)平原佐斗司:緩和ケア 20:579,599-604,2010.
 【笠間 睦:事前指示書と終末期医療─療養病床転棟時における終末期意向の変化調査. 2011年2月19日号日本医事新報No.4530 107-110】
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終末期医療を巡る諸問題―定義、法律、現状・・ [終末期医療]

朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第110回『終末期への対応 アルツハイマー型「末期」は、どこからか』(2013年4月14日公開)
 それでは平原佐斗司医師が実施している嚥下反射の客観的評価方法についてご紹介しましょう。
 「われわれは、簡易嚥下誘発試験(Simple Swallowing Provocation Test:S-SPT)や3cc水のみテスト、頸部聴診法などを組み合わせて用いることで、嚥下反射の有無を判断しています。これらの方法は簡便で、ほとんどの患者に苦痛なく実施することができます。
 S-SPTは口腔内清拭後、臥位にて施行します。細径のエキステンションチューブを中央で切り5ccシリンジと接続し、内部に水道水を充填します。チューブ先端を中咽頭に挿入し、0.4cc、1cc、2ccの順に水を注入し、注入から嚥下反射誘発までの時間を測定します。健常者では0.4ccの少量の水の注入で嚥下反射が誘発されます。一方、2ccの水の注入で、潜時(注入から嚥下反射誘発までの時間)が3秒以上あるいは嚥下反射がみられない場合、嚥下反射の極度の低下あるいは消失と考えられ、経口摂取は困難であると考えられます。」(平原佐斗司編著:認知症ステージアプローチ入門─早期診断、BPSDの対応から緩和ケアまで 中央法規, 東京, 2013, pp297-298)
 一方で、FAST7d,e,fを「末期」とする考え方もあります。この辺りがきちんと統一されておりません。
 東京大学大学院医学系研究科医療倫理学分野の箕岡真子医師は、「アルツハイマー病単独の場合には、FAST分類7(d)(e)(f)であれば終末期と判断してもよいと思われる。またアルツハイマー病そのものが終末期でない場合でも、何らかの身体的衰弱や摂食不良をきたす他の疾患の合併がある場合には終末期と判断される可能性もあり、個別のケースごとに担当医師の適切な診断が必要となる。とくに、延命治療を差し控えたり中止したりする場合には、倫理的には2人以上の医師による適切な判断が求められる。」(箕岡真子:認知症の終末期ケアにおける倫理的視点. 日本認知症ケア学会誌 Vol.11 448-454 2012)と指摘しています。


朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第119回『終末期への対応 米国のある医療倫理に関する模擬問題』(2013年4月23日公開)
 さてここで皆さんにクイズを出題しましょう。アメリカの医師国家試験(アメリカでは州単位なので厳密にいえば州の資格試験)において出題された医療倫理に関する模擬問題です。正解が1つありますので、a~eの中から正解を選んでみて下さい(樋口範雄:終末期医療と法の考え方. 老年精神医学雑誌 Vol.24 増刊号-Ⅰ 139-143 2013)。
 「84歳の女性が腹痛で入院した。入院2日目に彼女は、腸穿孔による熱、重度の低血圧、頻脈状態になった。患者は、自分の病状を理解する能力のまったくない状態であった。その後48時間にわたって抗生物質、水分、ドーパミンを投与したが、効果はなく、重度の無酸素性脳症の徴候がみられた。医療代理人(healthcare proxy)は指名されていなかったが、患者が自分で話すことができたならば自身のために希望したであろうことについて、家族間で一致した合意があった。家族の指示により止めることができないものは、以下のうちのいずれか。
 a. 人工呼吸器
 b. 血液検査
 c. ドーパミン
 d. 水分および栄養補給
 e. なにもない(つまり、すべて中止することができる)」

 東京大学大学院法学政治学研究科の樋口範雄教授がこの問題の正解について端的に解説しておりますので以下にご紹介しましょう(樋口範雄:終末期医療と法の考え方. 老年精神医学雑誌 Vol.24 増刊号-Ⅰ 139-143 2013)。
 「正解は最後のeである。そこには『困惑』はない。明らかな医療倫理上の正解が存在すると考えられている。もちろんそこに法の出番はない。裁判所に行く必要もなければ、水分や人工呼吸器を外したことで警察が介入することもない。
 なぜか。それは、患者サイドでは終末期医療における『自己決定』を尊重することがまさに医療倫理と考えられていること、さらに、医療サイドでは、無理な延命は、医療倫理に反することであり、医療にも一定の限界がある(それを越えた医療はfutility=無益)と考えられているからである。」
 自己決定が最優先されることに関しては、「ひょっとして認知症? Part1─改めて尊厳死、平穏死を考える(第325~337回)」において詳しくお話しました。リンク先のファイルの冒頭に記載しておりますように、「自己決定権の尊重という、医療倫理上もっとも重要な原則に照らす限り、患者本人の意思が明瞭に示されている場合に延命治療の中止を認めるかどうかが議論の対象となることはありえない。議論の対象になるとすれば、それは、昏睡患者などで、患者本人に意思を表明することができない場合だが、その場合でも、米国の判例は『昏睡患者などで本人に意思を表明することができない状況においても、その自己決定権の行使を保証する』という立場をとり、近しい家族による本人の意思の推定を、きわめて合理的な手段として受け入れている。」のが米国の現状でしたね。
 一方で、筑波大学大学院人間総合科学研究科生涯発達科学の飯島節教授は、自己決定原則の限界についても言及しておりますので以下にご紹介します(飯島 節:高齢者医療に必要な法律的知識. 2013.3.23発行日本医事新報No.4639 42-45)。
 「いずれのガイドラインにおいても、それが現在のものであるか病前のものであるかにかかわらず、患者自身の自己決定を最優先している。しかし、和を尊び自己主張を抑制することを美徳とする我が国の高齢者には、自己決定を避けて、信頼できる誰かに決定を委ねようとする傾向もある。米国においても、ほとんどの患者は自己決定権を行使したいとは思っていないという指摘もあり、自己決定に頼りすぎることの弊害も説かれている(マーシャ・ギャリソン:ケース・スタディ生命倫理と法 第2版, 樋口範雄 編著, 有斐閣, 2012, p377)。」

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 皆さん、2013年4月3日に放送されましたクローズアップ現代・No.3328『“凛とした最期”迎えたい~本人の希望をかなえるには~』(http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3328.html)観られましたか?
 放送においては、治る見込みがなく死期が迫っている(6ヶ月程度あるいはそれより短い期間を想定)と告げられた場合の延命医療について、37.1%の人が「延命治療を希望しない」と回答したことが紹介されており、国谷裕子キャスターは、「延命治療(主に、人工呼吸器、人工栄養、心肺蘇生)を希望しない人は、10年間で2倍に増えた。」と解説しておりましたね。
 「治る見込みがない場合の延命医療について」の調査結果(平成20年厚生労働省調べ)の詳細はウェブサイト(http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000000vj79-att/2r9852000000vkcw.pdf)において閲覧可能です。pdfファイルp17(図19)をご参照下さい。
 そしてその放送の中でスタジオコメンテーターとして出演された日本臨床倫理学会理事長の新田國夫医師のコメントは印象的でした。
 「『家族に迷惑をかけたくない』と意思表示される方が確かに増えています。しかしながら、それが本当に自分の生き方なのか、家族をおもんぱかってなのか(その判断は)非常に難しいのですが…。」


朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第120回『終末期への対応 慢性疾患の終末期の定義化は難しい』(2013年4月24日公開)
 終末期の定義に関して、日本老年医学会の「高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン─人工的水分・栄養補給の導入を中心として」作成に深く関わってきた東京大学大学院人文社会系研究科死生学・応用倫理センター 上廣死生学・応用倫理講座の会田薫子特任准教授(論文執筆当時の肩書きは、東京大学大学院人文社会系研究科グローバルCOE「死生学の展開と組織化」特任研究員)が書かれた印象的な記述がありますので以下にご紹介しましょう。
 「終末期医療の調査研究にあたる者にとって、終末期をどう定義するかは仕事の第一歩である。研究対象について焦点を絞ることと研究にかかわる概念を明確化することなしには、研究計画すら立てることができない。そのようなわけで、終末期医療の研究者としては、研究対象の定義化にはそれなりに時間を使ってきた。
 しかし、悪性疾患と異なり、慢性疾患の終末期の定義化は困難であり、数値で表現することは不可能かつ不適切との指摘もある。そこで、数値を使わずに疾患の進行段階で示すこともある。例えば、認知症の終末期の定義は、それがアルツハイマー型であればFASTの7-(d)の『座位維持能力の喪失』以降というのが海外学術誌上では標準的とみられる。一方、脳血管疾患型認知症の進行は様々なので、終末期の定義は非常に難しく、頭を悩ませる
 しかし、先日、ある事例検討セミナーで会った看護師の一言にハッとさせられた。それは、脳梗塞を繰り返し、意思疎通困難・摂食嚥下困難で、概ね寝たきりで経鼻経管栄養法を受けていた患者の例であった。
 患者は経鼻経管を嫌がり、毎日引き抜いてしまう。主治医は予後は半年以上とみて、患者の家族に胃ろう造設を勧めたが、家族は反対した。この患者への人工的水分・栄養補給をどうするか。この患者は終末期にあるとみて終末期対応をするのが適切かどうか、どのようにしてそれを判断するのか、私は医療者のディスカッションを聞いていた。その中で、この看護師は言った。『終末期かどうかということよりも、この患者さんのために何が最善なのか、それを考えましょう』。
 患者にとって、今、何をするのが最善なのかを検討するためには、医学的判断と併せて、患者本人がどのような人なのかを知ることが非常に重要である。それなしには、このような場面で本人がどのような価値判断をするのか、どういう意向を示すのかを推察することは困難である。
 家族らとのコミュニケーションを通じ、本人にとって何が大切なのかを知ろうとする。そうして本人像に迫ることによって、患者本人にとっての最善を探り、それを実現しようと努力することは、予後予測によって終末期対応の是非を探ることとはまったく異なるアプローチである。
 終末期医療をめぐる議論では常にその定義が問題とされてきた。そして、慢性疾患においては定義化が困難なので、終末期医療の議論も論理的に進めることができないという指摘もあった。冒頭に述べたように、私も定義化に汲々としてきた。本末転倒ではなかったか。定義は重要だが、そもそも何のための定義なのか。当たり前のことをしっかり認識させていただいた。」(会田薫子:終末期医療を考えるということ. 2011年3月19日発行日本医事新報No.4534 1 2011)

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 記事公開から丸一日過ぎましたので、2013年4月23日付中日新聞・生活面の記事内容の一部(私が関連する部分)をご紹介致します。

シリーズ・終末期を考える
 認知症に「末期」の定義─尊厳死協会が提案
 「延命措置」議論の材料に
 「治療中止を」「親不孝だ」 家族や医師で認識すれ違う

 認知症となった高齢者の「末期」判断をめぐり、日本尊厳死協会(東京、会員約十二万五千人)は新たな定義を示した。重度の認知症で、生命に直結するほど重い身体症状を併発した場合を「末期」とし、延命措置の是非を検討する必要があると提案。現在、認知症患者の末期や延命措置中止などの基準はない。現場に判断が任され、医師や家族が苦悩する中、議論の材料となりそうだ。【山本真嗣】

 榊原白鳳病院(津市)の医師、笠間睦さん(五四)は昨年九月、脳血管障害型の重度認知症で入院する八十代女性の家族から、鼻の経管栄養を中止してほしいとの意向を聞いた。本人の事前の意思表示はないが、家族は「本人がかわいそう」という。だが、女性は医師の呼び掛けに右手を上げたり、季節を答えたりすることもできる。時折肺炎を起こすが、抗生物質で改善する。
 笠間さんは「末期ではないし、本人の意思も分からない」と断り、治療を続ける。笠間さんによると、米国では認知症や合併症の状態を数値化し、半年後の死亡率を算出する研究もされている。「日本でも客観的に全身状態を判断できる指標が必要」と話す。

P.S.
 記事においては文字数に制限があり紙面公開されませんでしたが、私は、客観的な指標として、ごく最近は「ADEPT」という指標を用いて予後予測を説明するように心掛けつつあります。
 全米ホスピス緩和ケア協会(National Hospice and Palliative Care Organization;NHPCO)によるアルツハイマー病(AD)末期の定義、MRI(mortality risk index)、ADEPT(advanced dementia prognostic tool)などの予後予測指標については、このシリーズの終盤にてご紹介する予定です。

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終末期①─厳密な規定は難しい
 「交通事故や脳出血などによって一瞬で命を奪われるケースを除き、多くの人が心身とも衰え、死が避けられそうもない『終末期』の状態を経験します。しかし、一言に終末期といっても、亡くなる日時まで正確に予知することはできません。その意味で、いっから終末期として厳密に規定するのかは難しいです。
 その中で、日本人の死因トップであるがんは病気の進行と亡くなる時期が比較的はっきりしています。患者の状態が急激に悪くなるのは通常、亡くなる約2週間前です。がんではこの時期が終末期といえます。実は終末期といぅ言葉は、がんの場合に使われ始めました。今でもがんが連想されます。
 終末期に対するもう一つの関心は、回復の見込みがない植物状態になった場合における延命医療のあり方でした。こちらは法律家などが関心を持っていました。終末期という名称が初めてついた国の検討会でも、これら2つの分野が課題でした。
 その後、脳卒中後遺症や認知症の末期などにおける医療にも対象が拡大しました。問題は、がん以外では先に述べたように終末期の開始時期が明確でなく、末期が何年にも及んでいると捉えることもできます。こうした状況で、生命の尊厳を守りながら、本人や家族の意向をどのように反映きせて医療を提供するかが課題となっています。(池上直己・慶応義塾大学医学部教授)」
【2014年7月27日付日本経済新聞・健康 知っ得ワード】


朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第121回『終末期への対応 終末期はいつから―法的な問題も』(2013年4月25日公開)
 しかしながら医療現場では、終末期であることが確定されない状況では、延命措置を中止・差し控えることにより法的責任を問われるのではないかと懸念する声が根強くあるという状況にあります。
 この点に関して弁護士法人龍馬ぐんま事務所の小此木清弁護士は、「終末期の判断が確定されない状況では、延命医療の中止・差し控えに関して支援できないのではないか。たとえば、高齢者が、脳梗塞等を発症し経口摂取が困難な状況になった場合、ただちに終末期として延命医療の問題とすることはできないはずである。ましてや、人工的水分・栄養補給法(artificial hydration and nutrition;AHN)導入の開始・不開始をめぐり、医師と本人・家族との意思の不合致が存する事例に遭遇したとき、終末期であることを棚上げし、医療の現場にガイドラインによる延命医療の中止・差し控えを委ねることはできないというべきである。」(小此木 清:高齢者の終末期医療をめぐる法的諸問題 高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン─人工的水分・栄養補給の導入を中心として. 老年精神医学雑誌 Vol.23 1218-1224 2012)と述べています。
 高齢者の終末期に関して筑波大学大学院人間総合科学研究科生涯発達科学飯島節教授は、「終末期医療について論ずるには、まず終末期についての共通理解が必要であるが、残念ながらその定義は確立されていない。とくに、高齢者は複数の疾病や障害を併せ持つことが多く、また心理・社会的影響も受けやすいために、死に至る過程は、一般成人の場合に比して多様かつ複雑であり、臨死期に至るまでは余命の予測が困難であることが多い。そこで、『立場表明2012』においては『終末期』を具体的な期間で規定することはせずに、『病状が不可逆的かつ進行性で、その時代に可能な限りの治療によっても病状の好転や進行の阻止が期待できなくなり、近い将来の死が不可避となった状態』としている。」(飯島 節:高齢者の終末期医療およびケア─日本老年医学会の立場から. 老年精神医学雑誌 Vol.23 1225-1231 2012)と述べております。この定義は、2001年6月13日に報告された立場表明での定義と概ね同様の内容となっており、「その時代に可能な最善の治療」が「その時代に可能な限りの治療」と若干の変更がなされております。
 さて、小此木清弁護士は前述の論文の最後を、「現時点においては、高齢者本人の自己決定権による事前指示が存する場合を除いて、ガイドラインの意思決定プロセスを経たとしても、AHN中止・差し控えにより死をもたらすことは、立法的解決がなされない限り許されないと考える。」という言葉で締め括っており、事前指示書の存在の重要性を改めて強調しております。


朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第122回『終末期への対応 「終末期にしないで」と「生かし続けないで」』(2013年4月26日公開)
 最近、延命措置を差し控えたり中止を希望する意向をお聞きする機会が増えてきたように感じております。新聞などで終末期医療に関する話題が取り上げられる機会が多くなり、啓蒙が徐々に進んでいるためではないでしょうか。
 例えばこんな事例がありました。患者さんは高齢女性(80歳代後半)であり、2012年3月に発症した脳梗塞により左半身麻痺となり寝たきりの状態です。また、脳梗塞による嚥下障害のため経鼻経管栄養を実施しております。しかし、言語機能は保たれており、「おはよう」としっかり返事してくれます。
 2012年8月に肺炎を併発し抗生物質による治療を施行した際の話し合いの中で、ご家族より経管栄養の継続を中止してほしいとの意向をお聞きしました。
 私の立場は小此木清弁護士と同様に、「高齢者が、脳梗塞等を発症し経口摂取が困難な状況になった場合、ただちに終末期として延命医療の問題とすることはできないはずである。」という考えに立っております。すなわち、脳梗塞による嚥下障害は、仮に病状が「不可逆的」な状態(病状固定)に陥っていたとしても、決して「進行性」ではありません。経管栄養を継続すれば、「進行の阻止」は可能な状況です。すなわち、終末期とは考えられないわけです。私はご家族に、「終末期ではないので経管栄養は中止できません」とその理由を説明致しました。この患者さんは今も榊原白鳳病院に入院中であり、毎朝私に「おはよう」と返事してくれます。
 ではもしこの事例の基礎疾患がアルツハイマー病であった場合はどうでしょうか。FAST分類7d(着座能力の喪失)で嚥下障害がありますので、海外学術誌の定義に照らし合わせれば、「終末期」と判断されます。
 そして事前指示書があれば、本人の意向に沿って治療が差し控えられることもあるかも知れません。事前指示書がなければ、代行判断(患者意思の推定)がされることになります。
 代行判断に際しては、「本人以外の家族などとの話し合いにおいては、家族が常に正当な代理人であるとは限らないので、家族自身の希望と患者の意向の代弁とを明確に区別する必要がある。」(飯島 節:高齢者の終末期医療およびケア─日本老年医学会の立場から. 老年精神医学雑誌 Vol.23 1225-1231 2012)ことに留意する必要があります。それは、「家族の意向を尊重するにしても、家族には経済的・精神的負担という思惑が入り込む危険性があるので、あくまでも高齢者本人の尊厳に十分配慮することが重要となる。」(小此木 清:高齢者の終末期医療をめぐる法的諸問題 高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン─人工的水分・栄養補給の導入を中心として. 老年精神医学雑誌 Vol.23 1218-1224 2012)からです。
 代行判断も困難であれば、代理人を含めた関係者において最善の利益判断が実施されることになります。その場合には、病棟スタッフだけの判断ではなく、終末期の医療やケアについて議論する倫理委員会またはそれに相当する委員会を設置することも求められるでしょう。
 なお、「法的には『家族の定義』も定まったものではない。したがって、ただ、家族だからといって、当然には代理判断ができるわけではない」(箕岡真子:認知症高齢者の終末期医療における倫理的課題. Geriatric Medicine Vol.50 1407-1410 2012)という点にも留意しておく必要があります。
 ですから、延命措置を差し控えたり中止を行う場合には、かなり多くの行程を求められております。日本老年医学会の「高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン─人工的水分・栄養補給の導入を中心として」が発表され、プロセスが明確にされたことで大きな一歩は踏み出されました。しかし、そのプロセスを遵守するあまり、阿吽の呼吸による「静かな最期」が困難になってしまったと感じている医師は多いのかも知れませんね。そして、私もその一人のような気がします。
 私の脳裏には、患者さんの「勝手に終末期にしないでくれ!」という声と、「勝手に生かし続けないでくれ!」という二つの心の声が響いており、今でも葛藤が続いております。

Facebookコメント
 過日ご紹介しました2013年4月21日放送のNHKスペシャル「家で親を看取る」(http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20130421)において、「最善の利益判断」を話し合う場面が映し出されましたね。
 ご家族、在宅医の沖田将人医師を中心として、関係者11人が集まって話し合った場面です。
 こういった情景が映像として流されたのは、私の知り限りにおいては初めてのことだと思います。

筋萎縮性側索硬化症(ALS) [終末期医療]

家族に気兼ねし、死を選ぶ社会とは(2012.11.16)

 政策に切り込んだ社会派番組から抒情豊かな作品まで、山陰放送記者の谷田人司さんは、その掘り下げた仕事ぶりが高く評価されていました。
 その谷田さんに、07年、不治の病、筋萎縮性側索硬化症(ALS)が襲いかかりました。視力、聴力、感覚、知力が保たれているのに、手足や喉、舌を動かす筋肉が痩せ細り、最後には呼吸筋が動かなくなって死に至る恐ろしい病気です。
 人工呼吸器をつければ寿命を全うできますが、日本では生きることを諦め、つけない人が7割と推定されています。理由の多くは「介護の負担で家族に迷惑をかけるのがつらい」。
 ところが、デンマークの友人たちに聞くと、「考えられない」という答えが返ってきました。家族や友人の精神的な支えは大切だとしつつ、介護や看護の公的な支えが当たり前とされているからです。
 谷田夫妻は、2年目から人工呼吸器をつけ、障害者自立支援法などを活用し、デンマークに近い24時間対応のサービスを受けています。わずかに動く指でパソコンを打ち、培った人脈を生かして企画を提案。山陰放送は、谷田さんを社員として遇し続けています。

 東日本大震災が起きた時、谷田さんは被災したALSの先輩、土屋雅史さんを取材しようと思い立ちました。メールで交通機関の手配や取材交渉を進め、バッテリーを載せた車いすで仙台へ向かいました。「記者の意地です」。
 取材で谷田さんは、震災で停電が5日も続く中、近所の人たちが発電機やガソリンを持ち寄り、交替で手動の呼吸器を動かし、土屋さんの命をつないだことを知ります。「1日を大事に生きれば良い」という土屋夫妻の言葉に、谷田さんは「共に生きる意義を再認識しました」と振り返りました。
 ALSが進行すると、体のどこも動かず、全く意思表示できない完全閉じこめ症候群(TLS)になる可能性があります。それでも生きることに意味があるのか――。
 答えを探しに、谷田さんは東京都小金井市の鴨下雅之さん一家を訪ねました。雅之さんは家族にとってかけがえのない夫であり、父親であり続けていました。妻の章子さんは「遺影に言うのとは違う。聞いてもらえていると信じているので、幸せです」と語りました。

 その取材の一部始終を、後輩のディレクター佐藤泰正さんたちが、「生きることを選んで」という番組にまとめ、2月に放送しました。この記者魂に、第一回の日本医学ジャーナリスト協会大賞が贈られました。「家族への気兼ねから死を選ぶことのない社会にするための捨て石になれれば」という谷田さんの言葉が、重く響きました。
 【大熊由紀子:誇り・味方・居場所─私の社会保障論. ライフサポート社, 横浜, 2016, pp136-139】

私の感想:
 素晴らしい内容でしたのでこの節に関しては省略せずに全文ご紹介させて頂きました。
 認知症終末期の意向におきましても、「家族に気兼ねして胃ろうを拒否しているのではないか」という意見がしばしば指摘されます。何を持ってご本人の意向(「自己決定」)とするのか非常に難しい部分でもあります。
 三重大学認知症医療学講座の佐藤正之准教授がALSに関する非常に印象深い記述をされておりますので以下にご紹介致します。

朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第433回『加齢とからだ、加齢と知能─「体という牢獄に閉じ込められた精神」という疾患』(2014年3月14日公開)
 読者の皆さんにとっては、ALSという疾患のイメージはなかなか把握しにくいと思います。
 三重大学認知症医療学講座の佐藤正之准教授が書かれた著書の中には、ALS患者さんの症状に関する詳細な記述がされておりますので以下にご紹介して本稿を閉じたいと思います(佐藤正之:カルテと楽譜の間から─音楽家くずれの医者の随想 新風書房, 大阪, 2011, pp53-54)。
 「『ALS。日本名、筋萎縮性側索硬化症』
人間の体は、脳や脊髄にある運動神経細胞からの命令が筋肉に達することにより動く。ALSは、その運動神経細胞が消失してしまう疾病である。呼吸や会話、飲み込みを含めて、運動という名のつくものは全て、筋肉が収縮することにより達成される。その筋肉を動かしている神経細胞がなくなるということは、筋肉に命令が届かなくなることを意味する。最終的には全身が細って骨と皮だけとなり、眼球の動きと大小便の括約筋が保たれる外は、飲み込むことも、しやべることも、指一本動かすこともできなくなってしまう。そして何よりも、空気を肺に吸い込むための呼吸筋も麻痺するため、息をすることができなくなる。病気の原因は不明で、現在根本的な治療法はない。対症療法として、飲み込みが不可能になると、鼻から胃にチューブを通したり、或いはお腹に穴を開けてチューブを入れ、流動食を流し込む。一番の問題は呼吸である。呼吸筋の萎縮が進むにつれ、少し動いただけでも息切れするようになり、やがてじっと横になっていても息苦しさが取れなくなる。いわば数カ月間、数年かかってじわりじわりと真綿で首を締め続けられる状態である。治療として、気管切開をして首の付け根に穴を開けて人工呼吸器を装着すると息苦しさからは開放される。一方、肺や心臓など内臓の機能は正常で、脳も運動神経細胞以外は正常なまま保たれるので、意識や思考、感覚も健常時と全く変わらない。つまり、一旦人工呼吸器を着けたが最後、患者はベッドの上で次第に衰えていく自らの身体を、透徹した頭脳で直視し続けなくてならない。体中の筋肉が動かなくなっても何故か眼球を動かす筋肉だけは残るので、近年では特殊なワープロを使うと眼球の動きによって意志伝達できるようになった。しかし、まんじりとも動くことができずに身を横たえ、数年、十数年と生き続ける状態は、想像するだけでも痛ましい。患者の多くは、まだ元気なうちは『自分には呼吸器を着けないで欲しい』と言う。しかし殆どの人は、半分首を締められ窒息寸前の状態が何週間も続くと、苦しみに耐え切れず、或いは苦しむ姿を見るに見かねた家族が懇願して、人工呼吸器を着ける。当然息は楽になるのだが、生ある限り二度と呼吸器から離れられず、体という牢獄に閉じ込められた精神とも呼べる状態に直面し、後悔と自責の念に駆られる。」
 佐藤正之先生の患者さんに対する優しさが随所にじみ出ている著書です。一般書店では販売していないと思いますので、お読みになりたい方は出版社(新風書房:06-6768-4600)にお問い合わせ下さいね。

かあさんの家 [終末期医療]

家庭的な場でぬくもりある旅立ち(2012.5.4)

 サルの世界にも文化があり、若い世代から群れ全体に広がり、受け継がれていく── 世界的なこの発見の端緒をつくった三戸サツエさんは、私の憧れでした。宮崎県串間市で小学校教師のかたわら、サルの観察を続け、文化の伝承に気づいたのでした。
 そのサツエさんが95歳の時、脳梗塞で倒れました。病院で鼻や勝胱に管を挿入され、外さないように手足をベッドに縛られました。口を固く結んで水も飲もうとしないサツエさん。「死のうとしている」と直感した70歳の娘さんは宮崎市のホームホスピス「かあさんの家」の市原美穂さんに泣いて頼みました。
 それから2年後の昨年夏、私が訪ねた時は、サツエさんは口から食べ、笑顔を取り戻していました。 (以下省略)
 【大熊由紀子:誇り・味方・居場所─私の社会保障論. ライフサポート社, 横浜, 2016, pp108-111】

私の感想
 三戸サツエさんの物語は、朝日新聞の連載「患者を生きる」・命のともしびの中でも非常に強く残っているシリーズです。東日本大震災で連載が中断したシリーズでもあります。
 それを私がアピタルで紹介したものを以下にご紹介いたします。
 
朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第308回『死を覚悟・治療や食事を拒む─治療の道を選択』(2013年11月8日公開)
 朝日新聞の連載「患者を生きる」・命のともしびの『かあさんの家で(2011年3月8日~11日&3月17~18日掲載)』は、いろいろと考えさせられるシリーズでした。
 特に2011年3月10日の紙面(かあさんの家で・3)に書かれた文字からは強いインパクトを受けました。三戸サツエさん(95歳)は、自分自身の「死期」を悟り、栄養チューブ・点滴の管を自己抜去し、「みなさん、私はお先に行きます。あとはよろしく。幸せな人生でした。」と周囲に感謝の気持ちを伝えました
 私は、2010年10月に経験した亡父の介護経験がフラッシュバックのように思い出されました。父は入院した当日、私が自宅に入院に必要な物品を取りに行き、病院に戻ってくるまでのわずか30分程の間に点滴を自己抜去してしまい、ベッド柵を乗り越えてベッドの下に転落しておりました。点滴の液は床一面にこぼれておりました。慌てて看護師さんを呼んで来てもらい、父をベッドに戻し点滴を再度入れてもらいました。
 亡父が延命治療を望んでいなかったことは、父が記載し私に手渡した事前指示書の存在で明確でした。しかし私は、「父の状態は終末期とは言い切れない」と判断し、治療の道を選択しました。
 の日あの時、治療の道を選択したことについては、私は今でもそれで良かったと思っています。もし治療の道を選択していなかったら、「あの時もう少し前向きに治療していれば、もしかしたら今でも父は…」と後悔する日々をおくっていたことでしょう。  しかし、治療の道を選択したことで失外套症候群(メモ1参照)に陥り、胃ろうからの栄養管理を受け長年にも及ぶ要介護状態になっていたら…。私は父との約束を果たせなかったことを後悔する事態に陥っていたでしょう。
 救命目的で実施した医療行為が徐々に延命措置に移行していくケースは多々あります。それだけに「選択」は非常に難しいのが現状なのです。

メモ1:失外套症候群
 アルツハイマー病(AD)は進行性の疾患であり、やがては「失外套症候群」という状況に陥っていきます。
 失外套症候群とは、大脳皮質の広汎な機能障害によって不可逆的に大脳皮質機能が失われた状態です。しかし脳幹の機能は保たれており、瞬目反射は認められます。口に食物を入れてやると咀嚼して飲み込みます。分かっているかのように眼を動かしますが注視・追視は認められず、無動・無言の状態です。

代行判断にまつわる諸問題 [終末期医療]

6月18日

 丹野さん、吉田さんの講演会で、10分間だけお時間を頂き前座を務めさせて頂くことになりました。
 「認知症の終末期医療に本人の意向をどう反映させるのか」というテーマで5分間講演し、5分間の質疑応答に臨みたいと思います。



6月18日の講演会で問いかけたいこと

 雨でテニスもできないので、今日(2016.6.5)は6月18日の準備をしておきます。

 講演会での配付資料は2枚だけです。
 5分間ですから絞り込む必要があります。
 「認知症の終末期医療に本人の意向をどう反映させるのか」というテーマで話したら、1時間あっても2時間あっても議論が尽きないのは明白なので、逆に、5分くらいが良いのかも知れませんね。
 急遽、前座として差し込んでもらった経緯ですので、10分間お時間を頂けるだけでとっても有難いことだと思っています。

1枚目資料(患者を生きる─命のともしび)
 父が「延命措置お断り」という事前指示書を書いて私に託していたにも関わらず、私が、「もう終末期?」という思いから、「治療」という道を選択した経緯をお話したいと思います。
 しかし、最後の最後、人工呼吸器の装着は望まなかった。最後は父の事前指示書に従った。
 事前指示書の存在があることは、家族の辛い選択を後押ししてくれるんじゃないか・・。
2枚目資料(最期の医療)
 終末期医療の現状を伝えたい。
 現場では、本人の意向によらない家族の希望or医師の考えが反映されがち。しかし、それは「代行判断」じゃない!


 代行判断の諸問題は以下に示します。

朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第127回『終末期への対応 家族の意思だけで決めることはできない』(2013年5月1日公開)
 東京大学大学院医学系研究科医療倫理学分野の箕岡真子医師は、「日本では厚生労働省による終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン(2007年5月)がある。患者意思・事前指示の尊重→患者意思の推定→最善の利益判断の順になっている。」「事前指示(アドバンス・ディレクティブ):事前指示とは、『意思能力の正常な人が、将来、判断能力を失った場合に備えて、治療に関する指示(治療内容、代理判断者の指名など)を事前に与えておくこと』である。事前指示は、認知機能が正常であった以前のその人の自己決定の権利を延長するものであり、また、医療関係者や家族などは、認知症の人が意思能力のある時点でした決定をできるだけ尊重する義務がある。」(箕岡真子:認知症の終末期ケアにおける倫理的視点. 日本認知症ケア学会誌 Vol.11 448-454 2012)と述べています。
 では実際にはどの程度の人が、「胃ろう」を希望するのでしょうか。東京都立松沢病院精神科の新里和弘医師らは、認知機能が衰えた人に直接質問して意向を調査し、その結果を以下のように報告している(新里和弘、大井 玄:認知能力の衰えた人の「胃ろう」造設に対する反応. Dementia Japan Vol.27 70-80 2013)。
 「今日わが国では、胃ろう造設者は2010年の時点で約56万人に及ぶ(会田, 2011)。特に重度認知症者への適応が社会問題となっている。本研究では胃ろう導入の意向を、認知機能が衰えた人自身に直接質問したものである。対象は男性29名、女性41名の計70名(平均80.7±7.1歳)、診断はアルツハイマー型認知症が最も多く(53%)、70名の平均HDS-Rの得点は14.3±6.4点であった。結果として、胃ろう造設を希望したものはおらず、『いやだ』、『されません』など積極的に胃ろうを拒否した者が70名中57名(81.4%)に及んだ。約5%の患者が胃ろうを承諾したが、全例が医師の判断に委ねる消極的承諾であった。」(一部改変)

 さて、代行判断(患者意思の推定)とは、「現在意思能力がない患者が、もし当該状況において意思能力があるとしたら行ったであろう決定を代理判断者が推定すること」です。
 箕岡真子医師は、本人の意思の推定ができない場合の問題点についても言及しております。
 「事前指示もなく、本人の意思の推定もできない場合、家族の意思だけで治療方針を決定してよいのでしょうか。原則的には、患者自身の意思表示(事前指示も含む)がない場合には、標準的治療が実施されます。しかし、事前指示がなければ、『すべての延命治療を望んでいる』と推定するのも現実的ではありません。」(箕岡真子:認知症ケアの倫理 ワールドプランニング発行, 東京, 2010, pp114-115)
 箕岡真子医師は、「何が患者の『最善の利益』なのかを判断するにあたっては、家族や医師、看護師、介護担当者などの関係者が互いにコミュニケーションを深め、十分に話し合いをし、独断を避けることが重要である。」(箕岡真子:認知症の終末期ケアにおける倫理的視点. 日本認知症ケア学会誌 Vol.11 448-454 2012)と指摘しています。
 「最善の利益判断」を決定するに際しては、どのような視点が重視されるべきなのでしょうか。その点に関して、梶原診療所在宅サポートセンターの平原佐斗司医師は、「ご家族の意思決定を医師が支援するという役割はかなり大きいと思います。自分の肉親の命をご家族が決めるというのはかなり負担の大きなことなので、医療者がそれを支えることは絶対に必要です。そのときには、胃瘻をしたらどのぐらい生きるかといったエビデンスの話よりも、患者さんの価値観だったり、これまでの人生を振り返って、何がご本人の幸せかということについて話をしていく。できるだけコンセンサスをつくっていくようなアプローチがとても大事です。」(平原佐斗司 他:座談会・非専門医がどのように認知症に向き合ったらよいか? 内科 Vol.109 847-860 2012)と述べており、患者さんの価値観を重んじることが大切であると指摘しています。
 なお、現状においては、「本人の意思が不明な場合、家族の意思だけで、延命治療を行わずに『看取り』に入ることが法的に適切かどうかは、将来的な法的判断を待たなければならないでしょう。」(箕岡真子:認知症ケアの倫理 ワールドプランニング発行, 東京, 2010, p134)という側面があることも事実です。
 そして、多くの終末期医療に関するガイドラインは、「患者の意思・事前指示が確認できる場合はそれを尊重する」としており、延命医療に関する自分自身の意向を事前に表明しておく「事前指示書」が何よりも重要視されるのです。

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 独立行政法人国立長寿医療研究センターの三浦久幸在宅医療支援診療部長は、「認知症の場合は、もともとのその人の生き様、認知症になる前の意思を十分に考慮しつつ、現在の人生の質(QOL)を考えていくことになりますので、認知症が進行したその時点の言葉をもって、生命予後を左右する事項について『意思決定した』と理解することはできません。このため、自分の医療に対する意思表示は、末期に近い意思決定よりは、認知症になる前、あるいは認知症になっても判断能力が十分にある早い時期に行っておく必要があり、それは最も意味があって尊重されるべき意思決定だと思います。」と述べております(新・私が決める尊厳死 「不治かつ末期」の具体的提案 日本尊厳死協会, 名古屋, 2013, pp79-93)。
 そうなってきますと、アルツハイマー病の比較的初期の段階で、予後予測も含めて「告知」することが必要となってくるということになりますね。
 となると、初期段階で「正確にアルツハイマー病を診断する」というたいへん困難な課題が当然のように要求されることになるわけです。
 なぜ困難なのか? 具体的には、第76回『軽度認知障害 進行がとてもゆっくりなケース』(http://apital.asahi.com/article/kasama/2013030600007.html)においてご紹介したSD-NFTなど、初期の段階では鑑別することが難しい疾患が歴然と存在しているからなのです。


朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第122回『終末期への対応 「終末期にしないで」と「生かし続けないで」』(2013年4月26日公開)
 最近、延命措置を差し控えたり中止を希望する意向をお聞きする機会が増えてきたように感じております。新聞などで終末期医療に関する話題が取り上げられる機会が多くなり、啓蒙が徐々に進んでいるためではないでしょうか。
 例えばこんな事例がありました。患者さんは高齢女性(80歳代後半)であり、2012年3月に発症した脳梗塞により左半身麻痺となり寝たきりの状態です。また、脳梗塞による嚥下障害のため経鼻経管栄養を実施しております。しかし、言語機能は保たれており、「おはよう」としっかり返事してくれます。
 2012年8月に肺炎を併発し抗生物質による治療を施行した際の話し合いの中で、ご家族より経管栄養の継続を中止してほしいとの意向をお聞きしました。
 私の立場は小此木清弁護士と同様に、「高齢者が、脳梗塞等を発症し経口摂取が困難な状況になった場合、ただちに終末期として延命医療の問題とすることはできないはずである。」という考えに立っております。すなわち、脳梗塞による嚥下障害は、仮に病状が「不可逆的」な状態(病状固定)に陥っていたとしても、決して「進行性」ではありません。経管栄養を継続すれば、「進行の阻止」は可能な状況です。すなわち、終末期とは考えられないわけです。私はご家族に、「終末期ではないので経管栄養は中止できません」とその理由を説明致しました。この患者さんは今も榊原白鳳病院に入院中であり、毎朝私に「おはよう」と返事してくれます。
 ではもしこの事例の基礎疾患がアルツハイマー病であった場合はどうでしょうか。FAST分類7d(着座能力の喪失)で嚥下障害がありますので、海外学術誌の定義に照らし合わせれば、「終末期」と判断されます。
 そして事前指示書があれば、本人の意向に沿って治療が差し控えられることもあるかも知れません。事前指示書がなければ、代行判断(患者意思の推定)がされることになります。
 代行判断に際しては、「本人以外の家族などとの話し合いにおいては、家族が常に正当な代理人であるとは限らないので、家族自身の希望と患者の意向の代弁とを明確に区別する必要がある。」(飯島 節:高齢者の終末期医療およびケア─日本老年医学会の立場から. 老年精神医学雑誌 Vol.23 1225-1231 2012)ことに留意する必要があります。それは、「家族の意向を尊重するにしても、家族には経済的・精神的負担という思惑が入り込む危険性があるので、あくまでも高齢者本人の尊厳に十分配慮することが重要となる。」(小此木 清:高齢者の終末期医療をめぐる法的諸問題 高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン─人工的水分・栄養補給の導入を中心として. 老年精神医学雑誌 Vol.23 1218-1224 2012)からです。
 代行判断も困難であれば、代理人を含めた関係者において最善の利益判断が実施されることになります。その場合には、病棟スタッフだけの判断ではなく、終末期の医療やケアについて議論する倫理委員会またはそれに相当する委員会を設置することも求められるでしょう。
 なお、「法的には『家族の定義』も定まったものではない。したがって、ただ、家族だからといって、当然には代理判断ができるわけではない」(箕岡真子:認知症高齢者の終末期医療における倫理的課題. Geriatric Medicine Vol.50 1407-1410 2012)という点にも留意しておく必要があります。
 ですから、延命措置を差し控えたり中止を行う場合には、かなり多くの行程を求められております。日本老年医学会の「高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン─人工的水分・栄養補給の導入を中心として」が発表され、プロセスが明確にされたことで大きな一歩は踏み出されました。しかし、そのプロセスを遵守するあまり、阿吽の呼吸による「静かな最期」が困難になってしまったと感じている医師は多いのかも知れませんね。そして、私もその一人のような気がします。
 私の脳裏には、患者さんの「勝手に終末期にしないでくれ!」という声と、「勝手に生かし続けないでくれ!」という二つの心の声が響いており、今でも葛藤が続いております。

Facebookコメント
 過日ご紹介しました2013年4月21日放送のNHKスペシャル「家で親を看取る」(http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20130421)において、「最善の利益判断」を話し合う場面が映し出されましたね。
 ご家族、在宅医の沖田将人医師を中心として、関係者11人が集まって話し合った場面です。
 こういった情景が映像として流されたのは、私の知り限りにおいては初めてのことだと思います。

愛という名の支配 [終末期医療]

高山義浩先生と医学生の会話

 高山義浩先生と医学生の会話(https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=997883340265173&id=100001305489071)、かなり興味深い話が出てきますよ。
 例えば以下の部分です。

高山先生:
 「そういや、君、マザーテレサの施設でボランティアしたことがあるって言ってたよね」

医学生:
 「ええ、昨年、カルカッタの『死を待つ人々の家』に行ってきました」

高山先生:
 「僕も活動したことがあるよ。20年も前のことだけどね。ところで、今でも入所者が水を飲む時間って決められてるの?」

医学生:
 「そうですね。食事の時間、シャワーの時間、トイレの時間、それに水を飲む時間も決められてました」

高山先生:
 「あんなのはケアじゃない。シスターによる支配だ。そう思わなかったか?」


 高山義浩先生の鋭い視点、いつも感動しています。
 以前私が執筆担当しておりました朝日新聞社アピタルの医療ブログ「ひょっとして認知症?」第108回において、「愛という名の支配」について言及したことがありますので以下にご紹介致します。

朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第108回『終末期への対応 「愛という名の支配」ではないのか』(2013年4月12日公開)
 最近発行された老年医学雑誌において、「高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン─人工的水分・栄養補給の導入を中心として」(2012年6月27日)の起草・推敲を担当した東京大学大学院人文社会系研究科死生学・応用倫理センター上廣講座の清水哲郎特任教授が書かれた印象深い文言を見つけました。
 「家族は本人と非常に近い間柄である。だからその関係には、互いに相手のために一所懸命になる、という麗しい面とともに、相手の意思を軽視して、家族が本人にとってよいと思ったことを押しつけるといったこと─『愛という名の支配』─もあるのだということに留意して、時には、本人の最善のために、家族に対して本人を擁護する役割が医療・介護従事者に期待されることもある。」(清水哲郎:意思決定プロセスの共同性と人生優位の視点─日本老年医学会「高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン」の立場─. Geriatric Medicine Vol.50 1387-1393 2012)
 父に対して、胃瘻造設も検討した私の姿は、まさしく、「愛という名の支配」であったのかも知れませんね。
 なお、「死に目に会う」ことを重んじる慣習について、東京大学大学院人文社会系研究科死生学・応用倫理センター 上廣死生学・応用倫理講座の清水哲郎特任教授と会田薫子特任准教授は、週刊医学界新聞の座談会「終末期の“物語り”を充実させる─『情報共有・合意モデル』に基づく意思決定とは」(2013年2月4日付週刊医学界新聞・第3013号 1-3)において興味深い話を紹介されております(http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA03013_01)。
会田:
 「以前、ある訪問看護師から聞いた『患者さんの“死に目に会う”ことより、亡くなるまでのプロセスにしっかりかかわれたことが大事』という言葉が印象的でした。日本では『死に目に会う』、つまり最期の瞬間に立ち会うことを重んじる慣習があるので、普段訪問している看護師であるからこそ、患者さんの亡くなる瞬間には立ち会いたいものかと思っていたのですが、そうではないというのです。」
清水:
 「本人に寄り添ってケアのプロセスをたどってきた方は、『死に目に会う』かどうかにあまりこだわらない傾向があるように思います。本人とのつながりが安定しているからではないかと思うのですが。」

意思決定能力を判定する際のポイント 意思能力の判断 [終末期医療]

意思決定能力を判定する際のポイント 意思能力の判断

 「意思決定能力の有無」の判定という非常に重要なテーマについて、以前私が連載しておりました朝日新聞社アピタルの医療ブログ「ひょっとして認知症?」において、種々の意見を紹介したことがあります。

 ポイントとなる部分(1~3)を示した後で、アピタルの全文をご紹介いたします。

 「京都府立医科大の成本迅講師(老年精神医学)によると、身寄りがない認知症患者では、代わりにだれの同意をとるべきかわからないケースもあるという。成本講師は、患者の意思表示能力を客観的に評価したり、意思決定を手助けしたりするシステム(http://j-decs.org/outline/)の開発を目指していると報告した。」

 自己決定能力を有するか否かを判定するための世界共通のツールは存在しません。
 浅井篤らによる「意思決定能力を判定する際のポイント」を紹介しましょう(三浦靖彦、川﨑彩子:認知症の倫理的問題点. 内科 Vol.109 828-833 2012)。

◎患者が、医療従事者や家族の強制ではなく、自分自身で選択しているか。
◎自分の意思決定の内容を他者に伝達することができるか。
◎医学的状況と予後、医師が勧める治療の本質・内容、他の選択肢、それぞれの選択肢の危険と利益についての情報を理解できるか。
◎選択した治療が行われた場合、どのような結果になる可能性が高いかを推論できるか。
◎治療を拒否したり中断したりすることができることを理解できるか。
◎拒否や中断によって治療が行われなかった場合、どのような結果になるのかを(自分の身のうえに生起することとして)推論し、決断できるか。
◎決断が一時的でなく、安定しているか(ただし、急激な変化は疑うべきだが、穏やかな筋の通った変化は評価すべきである)。
◎患者の意思決定が患者の今まで表明してきた価値観や医療や人生における目的(価値観)と矛盾しないか。
◎患者の意思決定が妄想や幻覚、うつ状態に基づいたものではないか。

※上記すべてを満たしている場合、自律的に意思決定を行う能力があるといえるが、一つでも疑問点がある場合には、性急な判断は避けなくてはならない。

 医療行為を受けるにあたっての意思能力の判断については、必ずしも十分なコンセンサスが得られているわけではないが、GrissoとAppelbaum(Grisso T, Appelbaum P:Assessing competence to consent to treatment: A guide to physicians and other health professionals. Oxford University Press, NY, pp22-26, 47-48, 77-80, 90-91 1998)のExpression(選択の表明)、Understanding(治療の利点・副作用等の理解)、Appreciation(治療による結果の認識)、Reasoning(決定内容の合理性)の4つの条件が満たされた場合に意思能力ありとする考え方が一般的には示されることが多い。
【臼井樹子、本間 昭:認知症と介護保険、運転、成年後見制度. 臨牀と研究 Vol.91 944-948 2014】


 それでは、以下に朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第127回『終末期への対応 家族の意思だけで決めることはできない』(2013年5月1日公開)の全文とFacebookコメントを再掲してご紹介致します。

朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第127回『終末期への対応 家族の意思だけで決めることはできない』(2013年5月1日公開)
 東京大学大学院医学系研究科医療倫理学分野の箕岡真子医師は、「日本では厚生労働省による終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン(2007年5月)がある。患者意思・事前指示の尊重→患者意思の推定→最善の利益判断の順になっている。」「事前指示(アドバンス・ディレクティブ):事前指示とは、『意思能力の正常な人が、将来、判断能力を失った場合に備えて、治療に関する指示(治療内容、代理判断者の指名など)を事前に与えておくこと』である。事前指示は、認知機能が正常であった以前のその人の自己決定の権利を延長するものであり、また、医療関係者や家族などは、認知症の人が意思能力のある時点でした決定をできるだけ尊重する義務がある。」(箕岡真子:認知症の終末期ケアにおける倫理的視点. 日本認知症ケア学会誌 Vol.11 448-454 2012)と述べています。
 では実際にはどの程度の人が、「胃ろう」を希望するのでしょうか。東京都立松沢病院精神科の新里和弘医師らは、認知機能が衰えた人に直接質問して意向を調査し、その結果を以下のように報告している(新里和弘、大井 玄:認知能力の衰えた人の「胃ろう」造設に対する反応. Dementia Japan Vol.27 70-80 2013)。
 「今日わが国では、胃ろう造設者は2010年の時点で約56万人に及ぶ(会田, 2011)。特に重度認知症者への適応が社会問題となっている。本研究では胃ろう導入の意向を、認知機能が衰えた人自身に直接質問したものである。対象は男性29名、女性41名の計70名(平均80.7±7.1歳)、診断はアルツハイマー型認知症が最も多く(53%)、70名の平均HDS-Rの得点は14.3±6.4点であった。結果として、胃ろう造設を希望したものはおらず、『いやだ』、『されません』など積極的に胃ろうを拒否した者が70名中57名(81.4%)に及んだ。約5%の患者が胃ろうを承諾したが、全例が医師の判断に委ねる消極的承諾であった。」(一部改変)

 さて、代行判断(患者意思の推定)とは、「現在意思能力がない患者が、もし当該状況において意思能力があるとしたら行ったであろう決定を代理判断者が推定すること」です。
 箕岡真子医師は、本人の意思の推定ができない場合の問題点についても言及しております。
 「事前指示もなく、本人の意思の推定もできない場合、家族の意思だけで治療方針を決定してよいのでしょうか。原則的には、患者自身の意思表示(事前指示も含む)がない場合には、標準的治療が実施されます。しかし、事前指示がなければ、『すべての延命治療を望んでいる』と推定するのも現実的ではありません。」(箕岡真子:認知症ケアの倫理 ワールドプランニング発行, 東京, 2010, pp114-115)
 箕岡真子医師は、「何が患者の『最善の利益』なのかを判断するにあたっては、家族や医師、看護師、介護担当者などの関係者が互いにコミュニケーションを深め、十分に話し合いをし、独断を避けることが重要である。」(箕岡真子:認知症の終末期ケアにおける倫理的視点. 日本認知症ケア学会誌 Vol.11 448-454 2012)と指摘しています。
 「最善の利益判断」を決定するに際しては、どのような視点が重視されるべきなのでしょうか。その点に関して、梶原診療所在宅サポートセンターの平原佐斗司医師は、「ご家族の意思決定を医師が支援するという役割はかなり大きいと思います。自分の肉親の命をご家族が決めるというのはかなり負担の大きなことなので、医療者がそれを支えることは絶対に必要です。そのときには、胃瘻をしたらどのぐらい生きるかといったエビデンスの話よりも、患者さんの価値観だったり、これまでの人生を振り返って、何がご本人の幸せかということについて話をしていく。できるだけコンセンサスをつくっていくようなアプローチがとても大事です。」(平原佐斗司 他:座談会・非専門医がどのように認知症に向き合ったらよいか? 内科 Vol.109 847-860 2012)と述べており、患者さんの価値観を重んじることが大切であると指摘しています。
 なお、現状においては、「本人の意思が不明な場合、家族の意思だけで、延命治療を行わずに『看取り』に入ることが法的に適切かどうかは、将来的な法的判断を待たなければならないでしょう。」(箕岡真子:認知症ケアの倫理 ワールドプランニング発行, 東京, 2010, p134)という側面があることも事実です。
 そして、多くの終末期医療に関するガイドラインは、「患者の意思・事前指示が確認できる場合はそれを尊重する」としており、延命医療に関する自分自身の意向を事前に表明しておく「事前指示書」が何よりも重要視されるのです。

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 独立行政法人国立長寿医療研究センターの三浦久幸在宅医療支援診療部長は、「認知症の場合は、もともとのその人の生き様、認知症になる前の意思を十分に考慮しつつ、現在の人生の質(QOL)を考えていくことになりますので、認知症が進行したその時点の言葉をもって、生命予後を左右する事項について『意思決定した』と理解することはできません。このため、自分の医療に対する意思表示は、末期に近い意思決定よりは、認知症になる前、あるいは認知症になっても判断能力が十分にある早い時期に行っておく必要があり、それは最も意味があって尊重されるべき意思決定だと思います。」と述べております(新・私が決める尊厳死 「不治かつ末期」の具体的提案 日本尊厳死協会, 名古屋, 2013, pp79-93)。
 そうなってきますと、アルツハイマー病の比較的初期の段階で、予後予測も含めて「告知」することが必要となってくるということになりますね。
 となると、初期段階で「正確にアルツハイマー病を診断する」というたいへん困難な課題が当然のように要求されることになるわけです。
 なぜ困難なのか? 具体的には、第76回『軽度認知障害 進行がとてもゆっくりなケース』においてご紹介したSD-NFTなど、初期の段階では鑑別することが難しい疾患が歴然と存在しているからなのです。

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 2013年6月13日付朝日新聞「認知症とわたしたち─終末期ケア・どう決める」においては、2013年6月6日に大阪市で開催されました市民公開講座「高齢者の終末期医療」(日本老年医学会など主催)の様子が報道されました。
 記事のなかで私が印象に残ったのは、以下の部分です。
 「京都府立医科大の成本迅講師(老年精神医学)によると、身寄りがない認知症患者では、代わりにだれの同意をとるべきかわからないケースもあるという。成本講師は、患者の意思表示能力を客観的に評価したり、意思決定を手助けしたりするシステム(http://j-decs.org/outline/)の開発を目指していると報告した。」
 「千葉大の小賀野昌一教授(民法)は、成年後見制度が医療行為への同意権限などがないと解釈されている現状にふれ、『制度は本来、財産管理だけでなく生活を支援する側面も持っている』と指摘。後見人らにより広く権限を与えるべきだと主張した。
 解決策として『本人がしっかりと判断できる時期にいろいろな話をしておくことで、終末期の希望や意思のベースとなるものが推定できる。終末期患者の支援システムをつくり、地域のいろんな団体や専門職がかかわれるようにする』と説明した。」

 以上のお二人の意見を読まれてどう感じましたか?
 成本迅講師が模索されている「意思表示能力の客観的な評価」というのは非常に重要なテーマです。
 意思能力に関しては、「ひょっとして認知症? Part1─シリーズ・意思能力の有無って? 法学と医学のインターフェース(第65~71回)」において詳しくお話しました。
 「遺言は意思表示を要素とする法律行為の一類型として構成されている。
 従来の学説は、一般に、遺言に必要な精神能力を意思能力と解し、そうして、意思能力有無の基準としては満七歳程度の通常人の知能が具備されているか否かを想定していた。しかし、今日の通説は、満七歳程度の通常人の知能を有するか否かで意思能力の有無を判断すべきだとしつつも、問題となる法律行為(意思表示)の難易によってその行為に必要とされる意思能力の程度いかんも異なる(たとえば、売買の申込と単純贈与の承諾とでは前者の方が相対的に高い精神能力を要求され、また、同じ売買でも目的物が玩具と不動産とでは後者の方が相対的に高い精神能力を要求される)として、意思能力の「相対性」を承認するに至っている。」
 すなわち、シリーズ第14回『認知症の診断─素人判断は難しい』において述べましたように、「認知機能検査が何点以下なら『意思能力の欠如』という明確な規定を定めることは困難です。それは、検査の点数には教育歴などが影響しますし、問題となる法律行為(意思表示)の内容によって、必要とされる意思能力は異なるという背景がある」というのが現在の到達点なのです。
 このように「意思能力の客観的な評価」というのは未解決の非常に困難な課題なのです。さて、仮にそれが客観的に評価できたとして、その時点での意向(=認知症を患ってからの意向)をその人本来の意向と解釈してよいのかどうかという大きな課題が立ちはだかるのです。すなわち、三浦久幸医師が指摘されておりますように「認知症が進行したその時点の言葉をもって、生命予後を左右する事項について『意思決定した』と理解することはできません」という背景があるのです。

 小賀野昌一教授が指摘されました、日本の成年後見制度には医療同意権(治療行為の代諾権)がないという問題も非常に大きな問題です。
 この問題については、「ひょっとして認知症? Part1─「延命」を考える その6・7(第472~473回)」などにおいて詳しくお話しました。
 私自身の経験では以下のような事例を経験しております。
 とある認知症患者さん。意思能力が欠けており、成年後見制度が導入されておりました。その方は腎機能が低下し、透析治療が必要な状況となり急性期病院に入院となりました。
 しかし、成年後見人には治療行為の代諾権がなく、透析に関する「同意書」を得ることができず、急性期病院では人工透析の導入を断念致しました。
 このように人工透析の問題もたいへん大きな社会問題となってきております。
 人工透析患者さんにおける事前指示に関しては、「ひょっとして認知症? Part1─尊厳死を望みますか? その1(第241回)」においてご紹介したことがあります。
 近年においては、事前指示書等に基づき透析の導入・非導入を検討する動きも出てきており(http://medicallaw.exblog.jp/19948680/)、まさに「胃ろう」と同様の問題が起こってきているようですね。
 第58回日本透析医学会学術集会は、2013年6月20~23日に福岡において開催されます。主要講演プログラムを読みますと(http://www.congre.co.jp/jsdt2013/program/images/program_syuyou.pdf)、6月21日に「透析導入・非導入委員会─終末期患者に対する慢性血液透析療法の見合わせ」というセッションが組まれておりますので(pdfファイル63頁)、そこで何らかの提言が発表されそうですね。

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 自己決定能力を有するか否かを判定するための世界共通のツールは存在しません。
 浅井篤らによる「意思決定能力を判定する際のポイント」を紹介しましょう(三浦靖彦、川﨑彩子:認知症の倫理的問題点. 内科 Vol.109 828-833 2012)。

◎患者が、医療従事者や家族の強制ではなく、自分自身で選択しているか。
◎自分の意思決定の内容を他者に伝達することができるか。
◎医学的状況と予後、医師が勧める治療の本質・内容、他の選択肢、それぞれの選択肢の危険と利益についての情報を理解できるか。
◎選択した治療が行われた場合、どのような結果になる可能性が高いかを推論できるか。
◎治療を拒否したり中断したりすることができることを理解できるか。
◎拒否や中断によって治療が行われなかった場合、どのような結果になるのかを(自分の身のうえに生起することとして)推論し、決断できるか。
◎決断が一時的でなく、安定しているか(ただし、急激な変化は疑うべきだが、穏やかな筋の通った変化は評価すべきである)。
◎患者の意思決定が患者の今まで表明してきた価値観や医療や人生における目的(価値観)と矛盾しないか。
◎患者の意思決定が妄想や幻覚、うつ状態に基づいたものではないか。

※上記すべてを満たしている場合、自律的に意思決定を行う能力があるといえるが、一つでも疑問点がある場合には、性急な判断は避けなくてはならない。

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 「わが国では終末期医療に対する患者の具体的要望である事前指示書や尊厳死は法的に承認されていないので、患者の意思を尊重して医療行為を開始しない・継続を中止するという判断を医療側が実施した場合、その不作為が法的に免責されるわけではない。このような状況下で、日本救急医学会や日本老年医学会から終末期に関する指針が報告された。日本透析医学会としても、現場で対応に苦慮している医療者への支援として、治療を見合わせる意思決定プロセスを提言し、終末期治療のあり方について、医療者以外からも広く意見を求めながら、議論を進めている。
 血液透析自体は週3回の間欠的な治療であり、透析に束縛されるのは週当たり12時間である。医療チームは血液透析が困難な場合には、治療延期、時間短縮などの工夫で対処しており、この点で、血液透析の一時的な非開始や中止は、継続的治療である人工呼吸器の取り外しとは大きく異なる。
 患者の自己決定権が優先され、尊厳死が法的に認められている米国では、患者の自己決定による透析離脱(withdrawal)が2番目に多い死因である。日本では非導入/中止という項目で調査されておらず、詳細は不明であるが、まれなことではない。『血液透析導入ガイドライン』の策定に際し、この非導入/中止という問題についても議論すべきだ、と提案された。会員へのアンケートや用語についての議論を重ね、2013年1月に提言(案)を学会のホームページと学会誌に掲載し、パブリック・コメントを求めたというのが現状である。」(渡邊有三:透析中止も選択肢─日本透析医学会意思決定プロセスへの提言・案. 2013年12月号のメディカル朝日通巻第505号 48-49 2013)

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認知症を考える⑩:医療同意、代行の是非
 お正月休みに、認知症の患者さんの医療同意についての論文を書きました。医療行為には患者さんの同意が必要ですが、認知症のために自分で同意ができない場合は、誰かが、本人に代わって決定をしなければなりません。ところが、日本の法律では、成人に達した患者さんの医療同意を代行する権限のある人が存在しないのです。
 臨床の場では、協力的な家族があれば家族の同意で治療をしますから、実際にはあまり問題になりません。問題になるのは、責任を持って同意書に署名する家際がいない場合で、医療機関は手術などの積極的な治療に消極的になります。
 大腿骨骨折をした認知症の患者さんでも、家族が署名をして手術を受ければ、多くの場合、歩けるようになります。しかし、退院後のケアや費用負担を考えて家族が同意を渋ったり、家族が全くいなかったりすると、患者さんは手術を受けられず、そのまま寝たきりになることもあり得ます。
 自分で判断できない事態になった時のために、本人があらかじめ自分の意思を示しておく方法(医療の事前指示)もあります。ですが、経過が10年を超える認知症で、有効な事前指示を残すことは困難です。
 そのため、成年後見人に医療同意の代行権を認めよという主張が強まっています。しかし、私はこの考えに反対です。高齢者の医療行為は命に直結します。そういう重大な権限を、家族であれ後見人であれ、本人以外の個人に与えるのは適当ではないと思うからです。
 本人に同意能力がない時は、医師が、家族を含む関係者と協議して方針を決め、その決定の妥当性を事後的に検証する第三者機関を作るというのが最も現実的な解決策だと、私は思っています。【斎藤正彦、都立松沢病院院長】

記事(2014年1月26日付読売新聞くらし・認知症を考える⑩)を読んでの私の感想:
 確かに私も斎藤正彦院長が指摘するような何らかの仕組みが必要だと思います。
 と言いますのは、もう2~3年程前のことになるかと思いますが、腎不全を伴った認知症患者さんが転院されてきました。
 患者さんは意思能力に欠けており、以前より成年後見制度が導入されておりました。その方は腎機能が低下し、透析治療が必要な状況となり急性期病院に入院となったのです。
 しかし、成年後見人には治療行為の代諾権がなく、透析に関する「同意書」を病院が得ることができず、急性期病院では人工透析の導入が断念されました。
 そして、治療しない場合には、通常は療養型の病院に転院することになりますので、私が勤務する病院に転院してこられ私が担当することになった経緯です。
 皆でいろいろ検討したのですが、結局、透析を導入する手段は見つけられませんでした。

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 医療行為を受けるにあたっての意思能力の判断については、必ずしも十分なコンセンサスが得られているわけではないが、GrissoとAppelbaum(Grisso T, Appelbaum P:Assessing competence to consent to treatment: A guide to physicians and other health professionals. Oxford University Press, NY, pp22-26, 47-48, 77-80, 90-91 1998)のExpression(選択の表明)、Understanding(治療の利点・副作用等の理解)、Appreciation(治療による結果の認識)、Reasoning(決定内容の合理性)の4つの条件が満たされた場合に意思能力ありとする考え方が一般的には示されることが多い。
【臼井樹子、本間 昭:認知症と介護保険、運転、成年後見制度. 臨牀と研究 Vol.91 944-948 2014】

延命治療方針に影響する日本人の“こころ” [終末期医療]

延命治療方針に影響する日本人の“こころ”

 私が会田薫子先生の本を読み、一番強く印象に残っている部分、それは、以下の記述です。

延命は家族のため―家族の心情による臨床上の意思決定
♯25医師の意見:
 「ある意味ね、日本人はですね、そういう状態になったときは本人の幸せよりも家族の想いなんですよ。家族の想いのなかで生きなきゃならないというのが、やはり欧米人との一番の違いなんじゃないですか。これぞねえ、文化なんですよ。亡くなるというのはね、そのことが家族に受け入れられるまでの時間が必ずいるんですよね。その時間を作るためにも人工栄養は必要だと。ご本人が自分で意思表明ができなくなればね、そこから先はやはり、家族のなかで生きていかなきゃいけないんですよ。患者さんはやっぱり基本的にはご家族の、日本ではご家族のものですから、ね」(会田薫子:延命治療と臨床現場-人工呼吸器と胃ろうの医療倫理学. 東京大学出版会, 2011, p180)

私の感想
 私も♯25医師の意見、スッと共感できます。
 なぜなら、私も、父の終末期に、「終末期」だと受けとめるのにある一定の時間を要したからです。
 以下にそのことについて言及しております朝日新聞アピタルの「ひょっとして認知症-PartⅡ」第106~107回原稿、『終末期への対応』(2013年4月10~11日公開)をご紹介致します。

朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第106回『終末期への対応 患者に代わる意思決定は非常につらい』(2013年4月10日公開)
 東京ふれあい医療生協梶原診療所在宅サポートセンター長の平原佐斗司医師も実際の延命治療の選択においては、その国の文化的な基盤が影響することを指摘しております。
 「患者本人に代わる意思決定を行った代理人の3分の1超に、精神的に負の影響を受けているという報告(Wendler D, Rid A:Systematic Review: The effect on surrogates of making treatment decisions for others. Annals of Internal Medicine Vol.154 336-346 2011)があります。家族にとって、肉親の命に関する決定を強いられることは非常につらい経験です。末期の時期の家族支援は、患者とともに歩く家族を最期まで支え、患者の死後も生きていく家族に心の傷が残らず、自分の人生を生きていくことが容易になるようにすることです。
 実際の延命治療の選択は、その国の文化的な基盤が影響します。米国のホスピスでは、ホスピスプログラムに入るときに十分な説明を行ったうえで、胃瘻などの経管栄養はもちろん、末梢輸液も含めて延命治療は一切行わず自然の経過で看取りを行っています。
 日本では、末期認知症患者が飲み込めなくなったときには、末梢輸液や皮下輸液を希望する家族が少なくありません。家族は、患者が末期となり嚥下反射が消失した時期に、無理をして食べさせようとすることが肉親を苦しめることになることを目のあたりにします。そして、自分が食べさせることを断念することが肉親の死をもたらすというジレンマのなかで家族は苦悩します。
 このとき、末梢輸液や皮下輸液を選択することによって、家族は自分が食べさせないことが直接患者の死をもたらすわけではないと考えることができます。末梢輸液や皮下輸液を行っている2、3か月の間に、最期の看取りケアを行うなかで、家族は肉親の死を受け入れていくのです。」(平原佐斗司編著:認知症ステージアプローチ入門─早期診断、BPSDの対応から緩和ケアまで 中央法規, 東京, 2013, pp307-327)

 私は、父(2010年10月21日永眠)が亡くなる1年前の2009年8月6日に父(当時86歳)から事前指示書を渡されました。そこには、「延命治療はして欲しくない」との意向が明記してありました。その翌年の2010年春、父は車の接触事故を同じ日に二度も起こしました。認知障害が出現し始めてきたのです。それでも5月頃まではパソコンでインターネットも楽しんでおりました。
 2010年の夏はひときわ暑かったせいもあったのか、夏頃より食欲が極度に低下し体重減少も目立ってきました。本人は入院治療を望んでおりませんでしたが在宅医療での回復は望めないと私は判断し、2010年10月14日に入院となりました。
 2010年10月15日、朝日新聞生活面に、辻外記子記者が書かれた『最期の治療 事前に指示書』というタイトルの記事が出ました。
 まさに「事前指示書」絡みの問題で思案している真っ最中でしたので、10月15日朝日新聞社医療面のアドレス宛に一通のメールを送信しました。そのメールの内容を、一部改変して以下にご紹介します。
 「終末期をどう過ごしたいのか? もちろん、本人の意向は尊重されるべきです。しかし、残念ながら日本では、死生観を確立する機会が少ないのが現状だと思います。そのため、元気なうちに『事前指示書』を記載している方は極めて稀です。
 私の父が衰弱して入院した当日、主治医の先生から、『挿管はどうされますか?』と質問されましたので、『実は、事前指示書を父から受け取っています。本人の意向は、延命治療はして欲しくないという意向です。しかし、今、治療することが延命治療的な意味合いが強いのか、回復のための治療なのか判断に迷いますので…』と言葉を濁し、延命治療に関する明言を避けました。
 医師でも、終末期であるのかどうかの判断に迷うことは多々あります。『事前指示書』を書いたからそれで終了(最終意向)ということではなく、折に触れて意向を確認し、また、病状が変化するたびに修正を加えていくという姿勢が求められるのだと思います。
 入院して間もない家族にとっては、『終末期に延命治療をしない』という選択肢を選ぶことは、非常に辛い選択となります。私も、父の事前指示書をどの程度『尊重』するのか未だに決めかねています。」


朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第107回『終末期への対応 「延命措置は一切お断り」という事前指示書』(2013年4月11日公開)
 後日、私が亡父から「事前指示書」を手渡され葛藤した日々の様子は、朝日新聞・患者を生きる「命のともしび・事前指示書」(2011年1月18日~23日掲載)において連載されました。記事内容は、ウェブ新書(http://astand.asahi.com/webshinsho/asahi/apital/product/2013020700004.html)にてお読み頂くことができます。
 この連載の中で、私は以下のように語っています。
 「本当に『終末』と納得できたなら、迷わず指示書に従う。でも指示書があることと、家族が『終末期』と認めることは別問題だ。」

 亡父が書いた事前指示書には、「死期が迫っていると診断された場合、延命措置は一切お断り致します」と明記してありました。
 私は父の担当医師に、父が書いた事前指示書を入院3日目(2010年10月16日土曜)に渡しました。
 渡す際に、「延命措置を完全にやらないのではなくて、救命できるものならば、気管内挿管をしての呼吸器装着もお願いします」、「導入して頂いた完全静脈栄養(Total Parenteral Nutrition;TPN)は、長期間は続けられないと思いますので、18日月曜日の胃内視鏡検査(胃カメラ)が問題がなければ、胃瘻造設に関してもご検討いただければ…と思っています」と言い添えました。
 入院して一週間後の2010年10月21日早朝、父が入院している病院から1本の電話が入りました。
 「お父さんの脈拍が30くらいで、呼吸が止まっています。すぐに来て下さい。」
 予想していなかった急な呼吸停止に陥ったのです。
 その電話連絡を受けたとき、「傍にいて看取ってやれない」、「人工呼吸器の装着をお願いすれば、臨終の場に立ち会える可能性はあるかも…」といった数々の思いが私の頭の中を駆け巡りました。
 そんな私の最後の願いを制止したのは、父が書いた「事前指示書」の存在でした。私は病院に向かう途中で、病院に連絡を入れました。
 「本人の事前指示でもありますから、人工呼吸器は装着しなくてよいです。」
 最後の最後は、父の意向を尊重しました

追い続けてきた夢─認知症の終末期医療に本人の意向をどう反映させるか [終末期医療]

追い続けてきた夢

 長年に渡って追い続けてきた夢が朝日新聞フォーラム面の記事となって実を結びました。
 長年に渡って追い続けてきた夢のヒントは、『私がうつ病を患った理由』(https://www.facebook.com/atsushi.kasama.9/posts/585984924904524)にて少しご紹介しましたが、その経緯を詳しくお話しますね。

 私がうつ状態で苦悩する中、2014年から2015年にかけて唯一書き上げた論文が『入院高齢者診療マニュアル』【編者:神﨑恒一 著:笠間 睦:認知症患者の胃瘻. pp278-280, 文光堂, 東京, 2015】(http://akasama.blog.so-net.ne.jp/2016-03-06-1)であることは過日お話しました。うつと向き合いながらまさに執念で書き上げた論文です。
 この論文を書くまで、私は次のようなことで壁にぶつかっておりました。

 アルツハイマー病に対する告知が進んでいない。私自身もこれまで告知には消極的であった。世界的に見てもアルツハイマー病の告知は躊躇されている状況・・。
 しかも、アルツハイマー病末期の“定義”が明確には決まっていない。
 でも、本人の意向を終末期医療に反映させたい・・。
 このジレンマにぶつかり、長らく解消できず悶々としていたのです。

 私は、告知せずに本人の意向を終末期医療に反映させる方法はないだろうかと考えに考えた結果、辿り着いたのが「マイルドな告知」でした。
 具体的には、以下のような告知がマイルドな告知です。
 「あなたは、アルツハイマー病の可能性が高いように思われます。誰しもいずれは食べられなくなるのですが、もしアルツハイマー病であるとすると、健常者よりも若干早く、『嚥下障害』が起きて食べられなくなる可能性があります。そうなったときに、どのような医療を望まれますか? 選択肢は・・・」といった説明を行ったのです。
 そして私の発表は神﨑恒一先生の知るところとなり論文にまで辿り着きました。
 私は、認知症の終末期医療に本人の意向を反映させるためには、この手法(=マイルドな告知)しかないと信じていました。
 そして、朝日新聞のウェブサイト上の意見投書欄に自分の考えを書き込みました。3月中頃だったかな・・。投書はすぐに採択されました。そして数日後、朝日新聞社の畑川剛毅さんからメールかお電話を頂きました。
 「記事まで至るかどうかは不明だが話だけでも聞きたい」と。

 そして取材当日(2016.4.6)。入念に資料を準備しておいたものの、それでも取材が終わったのは15時頃で約5時間に及ぶ取材となりました。
 その取材では、畑川剛毅さんは私の活動を概ね好印象として受け止められた様子でしたが、畑川さんが取材の終盤でボソッと呟いたひと言(独り言)は私の心に突き刺さりました。
 そのひと言とは、「予後告知抜きにして聞いた意向は、本当の意向と言えるのだろうか・・」でした。
 私は、正直に、「私には予後告知はできませんでした。」と畑川さんにお伝えしました。

 しかし、2016年4月23日に開催されましたアルツハイマー病研究会 第17回学術シンポジウム(in グランドプリンスホテル新高輪)のプレナリーセッション2「Living Well with dementia・希望を探す」におきまして、水谷佳子さん vs 丹野智文様の対談をお聞きし、私は唸りました。
 その対談で語られたやり取りを以下にご紹介(再掲)しましょう。

Q(水谷佳子さん):
 「認知症と診断された後の絶望は?」
A(丹野智文様):
 「(告知を受けた後)インターネットで調べたら、『若年認知症は進行が早く、2年後に寝たきり、10年後に亡くなる』と書いてあって・・。
 これから子どもを学校に行かせることができるかな・・。自分のことよりも家族のことを心配しました。」
Q(水谷佳子さん):
 「何で笑顔を取り戻せたの?」
A(丹野智文様):
 「家族会に行ったら、2年で寝たきりになってないし・・。書いてあること間違ってるんやなぁ~って思えて・・。
 (自分も)2年経ちましたが寝たきりになってないし・・。
 家族会に行ったら、偏見を持たずに普通に接してくれるので、こうした人間関係が構築されるんだったら、認知症が進行してもいいかなぁ・・と思えるようになりました。」

 そうか! 「進行にバラツキが大きいことをきちんと伝えれば、もしかしたら予後告知も可能かも知れない」と私は感じたのです。

 「患者の自己決定権」を最優先して取り組み、本人が告知を望まれ、しかも予後告知まで希望されるのであれば、バラツキがあることだけはきちんと伝え意向調査に踏み切っても良いかな・・との思いに至りましたので、「認知症終末期意向調査Stage2」に着手しだしております。
 結果がまとまれば、本年12月に開催されます第35回日本認知症学会学術集会(http://www.jsdr35.com/)にて発表したいと考えております。

最期の医療─認知症 意思どう確認 [終末期医療]

最期の医療─認知症 意思どう確認

 枕草子に「七栗の湯」として登場する津市の榊原温泉の近くに榊原白鳳病院があります。もの忘れ外来の認知症専門医笠間睦さん(57)は4月、定期的に診察する認知症患者の意向を確認していました。
 「『人生の最終段階における医療』に関する意識調査」です。「口から食べられなくなった時にどのような医療を希望しますか」と患者に尋ね、「自然な最期」「末梢からの点滴」「(鼻から管を通し人工的に栄養を流す)経鼻経管栄養」「(胃に穴を開け体外から通した管で栄養剤を入れる)胃ろう」「高カロリー輸液」「医師に任せる」「その他」から選びます。患者が答えられない場合は家族が答えます。
 認知症患者に最期の医療の希望を聞くこと自体が珍しい試みです。2年前も29人の患者に同じ調査をしました。「自然な最期」と「点滴」が合わせて18人、経管栄養や胃ろうを希望した患者はいませんでした。
 2年前にも調査を受けた人が今回8人いましたが、みな前の調査を覚えていませんでした。それでも、それぞれ前回と同じ項目を選びました。「患者が尊厳ある生を全うするため、判断力が衰えても定期的に意向を確認することが大切だ」と笠間さんは言います。

「代行判断」=家族の希望?
 認知症患者の「最期の医療」の選択には独特の難しさがあります。選択にあたっては患者本人の意向の確認が不可欠ですが、選択を迫られる時点では本人の判断能力が落ち、意思表示できない場合があります。あるいは、意思が示されても「本当に本人の希望とみなしていいのか」という疑問がつきまとうといいます。
 厚生労働省の「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」によると、患者の意思・事前指示の尊重が最優先で、それが明確でない場合、次善の策として、患者の意思を推定して代行判断します。推定できなければ家族・医師が、患者の最善の利益を判断することになります。でも、日本の医療現場では、患者の代行判断のはずが、家族や医師の希望がそのまま最期の医療の方針となることが往々にしてあります。笠間さんは「家族だけでなく医師も『代行判断』をはき違えている」と話します。

希望抱ける告知が大切
 こうした事態を避けるため、認知症がまだ進んでいない初期の段階に、あらかじめ患者の希望を聞いておく必要があります。ただ、その前段の患者への告知は十分には行われていないのが実情です。2010年に首都圏の認知症患者の家族を対象に行われた調査で、本人に病名が告知されたのは半分以下。終末期の説明がされたのは「ある程度」を含めても2割でした=グラフ。
 調査した首都大東京教授で認知症治療の第一線に立つ繁田雅弘さんは、「告知は増える傾向にあり、よいことだ」としながらも、一方で「『アルツハイマー病です。治らない病気です』などと、行き届かない告知をされ、混乱したり落ち込む方もおられます」と言います。
 繁田さんは、患者が今後に希望を抱ける説明を心がけるべきだといいます。「放置すれば早い段階で物忘れが激しくなりますが、適切な治療とよいケアを受ければ、軽症か中程度の症状のまま、自分らしい人生を全うできます」という具合に。そのように医師が患者との間に信頼関係を築いた上で、患者の「最期の医療」に医師と患者がともに思いをはせてみる。そうすれば「徐々に患者は最期のあり方を考え、死を見つめるようになる。その思いを家族や医療者と共有すれば終末期医療に反映される」と繁田さんは言います。

難しい「終末期」の定義
 認知症患者の「最期の医療」には、別の大きな問題もあります。「どの段階からを終末期とするのか、判断が難しい」(会田薫子・東大特任准教授)ことです。
 笠間さんが担当する女性患者(83)は、アルツハイマー病が進み肺炎を併発して6年前に入院。以来、意識が戻らないまま「一日でも長生きしてほしい」という家族の希望で鼻からの管を通して栄養を受け続けています。「入院時に病状からすでに終末期だと判断した」と笠間さんは言います。しかし、丸6年、栄養を受け続ける状態に「これを人生の最終段階と判断していいのか」という疑問も浮かぶそうです。 (畑川剛毅)

私の感想
 畑川剛毅様、良い記事に仕上げて頂きまして誠にありがとうございます。
 5時間超に及ぶ長い取材でお疲れだったことと思います。

 さて、「『入院時に病状からすでに終末期だと判断した』と笠間さんは言います。」の部分ですが、アルツハイマー病末期の定義覚えておられますか?
 以下に詳しくまとめましたのでご参照下さい。
 http://akasama.blog.so-net.ne.jp/2016-05-21-1
 http://akasama.blog.so-net.ne.jp/2016-05-22
 https://www.facebook.com/photo.php?fbid=587386704764346&set=a.530169687152715.1073741826.100004790640447&type=3&theater¬if_t=like¬if_id=1463863248723645
 アルツハイマー病の自然経過に関しては、FAST(Functional Assessment Staging of Alzheimer's Disease)を参考にされるとよいでしょう。FASTは、日常の行動観察から重症度を評価するスケールです。

 「http://akasama.blog.so-net.ne.jp/2016-05-21」におきまして私は、以下のように書いております。
 「経腸栄養で何年も遷延性意識障害で生き続けるアルツハイマー病末期(?)の患者さんを見ておりますと、『これで本当に良かったのかな・・』とも感じており、この部分では私も明確な結論を出せずにおります。
 『胃瘻などの経管栄養を行っても約1年で死に至ることが多いは本当か?』(http://akasama.blog.so-net.ne.jp/2016-02-01-2)でご紹介しておりますFASTのステージ7e(笑う能力の喪失)の女性患者さん(入院時77歳)、2016年4月で入院して丸6年が経過しました。
 6年間寝たきりの遷延性意識障害(植物状態)で過ごす患者さんを見ておりますと・・。
 この患者さんは、発症してからしばらくして私の外来に通院するようになった方で、初診の時点で“病識”の面で既に問題がありましたので、告知せずに来た方です。
 終末期における治療方針は、私と娘さんが話し合い、私が娘さんの意向を尊重する形で決めた方針です。
 娘さんは今も後悔していないと私は思います。最近の心情はお聞きしておりませんが・・。」

 しかし、朝日新聞社の畑川剛毅さんの取材日に、娘さんの今の心情をお聞きすることができました
 この日の取材は、娘さんの心情をお聞きする機会も与えてくれました。
 娘さん、こんな風にお話されました。
 後悔どころか感謝しています。」  娘さんにとっては、お母さんの「存在」そのものが尊いとのお話でした。そして、「音楽を聴かせるとかすかに反応が違い、本人は、私が病室に来ていることを分かってくれているように思います。」と話してくれました。

 娘さんの話をお聞きして、私は高山義浩先生が2013年6月19日に朝日新聞医療ブログ・アピタル『直観の濫用としての“胃ろう不要論”』で語った以下の言葉を思い出しました。
 「私は胃ろう推進論者ではありませんが、胃ろうを選択した方々が後ろめたさを感じることがないよう配慮したいと思っています。寝たきりでも、発語不能でも、それで尊厳がないと誰が言えるでしょうか? コミュニケーションできることは『生命の要件』ではありません。胃ろうを受けながら穏やかに眠り続けている…。そんな温室植物のように静謐な命があってもよいと私は思うのです。」
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