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RUN Tomo-rrow MIE「D7~認知症当事者からの発信~」 [RUN Tomo-rrow MIE]

RUN Tomo-rrow MIE「D7~認知症当事者からの発信~」
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 情報を発信してこられた当事者パイオニアのお一人、佐野光孝さんも来られるのですね。
 朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」におきましても、佐野光孝さんのことは何度もご紹介させて頂いております。代表的な原稿を以下にご紹介します。

 佐野光孝さんの懐かしい動画、探してみました。
 NHK・Eテレにおきまして、2013年7月1日・2日・3日・15日・25日の5回にわたって、『シリーズ 認知症 “わたし”から始まる』が放送されました。7月25日のシリーズ最終回放送(http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/calendar/2013-07/25.html)において、佐野光孝さんが出演されております。
 https://www.facebook.com/atsushi.kasama.9/videos/vb.100004790640447/592098767626473/?type=2&theater
 
朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第154回『認知症のケア できなくなることは増えても自分は残っている』(2013年5月28日公開)
 精神科医の小澤勲さん(故人)が生前に書かれた著書『認知症とは何か』のなかには、認知症を患っても感情領域の障害は認知障害と並行して同じように低下するわけではないことについての記述があります。
 「認知症を病むと、認知の障害は進行し、深まっていく。ところが、幸か不幸か、感情領域の障害は、認知障害と並行して同じように低下するわけではない。もし、世間の大方が誤解しているように、『ぼければ、何も分からなくなるから本人は楽なものだ。周囲は困り果てるのだが…』という考えが正しいようなら、つまり知的能力の低下と並行して感情障害も深まり、感情が枯渇していくのならば、彼らはそんなに追いつめられないですむのかも知れない。しかし、実際はまったく違う。
 認知症を病む人たちの多くは徐々に『できないこと』が増えていくのだが、一方でそのことを漠然とではあれ感じとる能力は保持されている。自分が人に迷惑をかけていることも、自分が周囲からどのようにみられ扱われているかということも、彼らはとても敏感に感じとっている。そして、不安に陥り、怯えている。」(小澤 勲:認知症とは何か 岩波新書出版, 東京, 2005, pp94-95)
 朝日新聞社の新連載「認知症とわたしたち」第1部「気づきのとき・1─元の私は残っている」(2013.1.3)においても、初期のアルツハイマー病を患っている戸田恵さん(80歳)が本人としての思いを以下のように語っていましたね。
 何年も親しくしてきた友人に認知症を打ち明けたときのこと。「そうなったら、人間はおしまいじゃあ」と突き放された。別の知人に「話すことはできるけど、計算ができない」と言うと、「ウソじゃ!」と言われた。理解されない苦しさは、言葉で表現できないほどだった
 だが顧みれば自分も同じだった。認知症の父を理解できなかった。石垣に靴下を詰め込んだり、他人の自転車を勝手にとってきてしまったり―。「人格が崩壊する病気」と思っていた。
 でも「それは間違いだった」。はっきりとわかったのは、認知症になってからだ。いまの自分を戸田さんはこう表現する。「できなくなった部分は黒で、できる部分は白。認知症になると白と黒が混ざった灰色の別人格になると思っていたけど、そうじゃない。できなくなることはあっても、『戸田恵』という白い元の私はしっかり残っているんです」
 認知症に対する偏見と誤解が随分と減ってきているとはいえ、実名を出して認知症であることを公表している方は、まだまだ少ないのが現状ではないでしょうか。その一人である佐野光孝さんは、日本老年看護学会第17回学術集会の一般公開フォーラムにおいて、次のように語っています。
 「私、認知症ですけど、皆さんにちょっと言いたいことがひとつあります。認知症ということを正しく理解してほしいんですね。認知症、いろいろと偏見と誤解があります。認知症の方でも、普通の人なんですよね。たまたま病気になっただけですので。そういうことを正しく理解してほしいと、そこをお願いします。」(永田久美子:認知症の人とともにつくるまちづくり. 老年看護学 Vol.17 20-27 2013)


朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第371回『その人はどう生きたかをきっかけに─ノートはコミュニケーションの道具』(2014年1月11日公開)
 「メモリーブック」というわけではありませんが、“どこどこに旅行に行きたい”などのやりたいことを書き留めたり、新聞を書き取ったりするためのノートを作成して、リハビリテーションスタッフとのコミュニケーションに活用している方もおられます。その方は、佐野光孝さんです。
 実名を出してアルツハイマー型認知症であることを公表し、講演活動などにも積極的に取り組んでおられます。光孝さんのノートはすでに相当な冊数になっているそうです。
 認知症介護研究・研修東京センターの永田久美子研究部副部長/ケアマネジメント推進室室長は、光孝さんのノートを読んだ感想を以下のように語っております。
 「筆者はノートをみせてもらったことがあるが、書き始めたころよりも、現在の字のほうがしっかりと、きれいになっている印象を受けた。暮らしのなかで楽しみながら継続することの威力は大きい。ノートにはやってみたいことや行きたいところなどがたくさん書かれている。できないことよりできることを見つけ、小さな役割や楽しみを組み込みながら生活を整え、毎日の生活を足場にして外にも出ていくなかで地域とつながり始めた経過を、このノートは物語っている。」(永田久美子:認知症の人とともにつくるまちづくり. 老年看護学 Vol.17 20-27 2013)
 そして、佐野光孝さん自身はノートの意義について、次のように述べております。
 「(ノートの冊数は)まあ、20か30ぐらいですね。今、毎日、やっているんですけど、朝起きたときに、新聞をとって、切り抜きで、それをノートに写すんですよね。自分の気に入った部分をまた書き抜いているんですけど。今もずっとやっています。またそれをまた病院のリハビリの先生にもそれをみせるんですよね。そうすると先生は、まちがいとかそういうのをチェックして、まちがいが今回ありますから、がんばってくださいっていうことで、そうか、自分は一生懸命やったんだけど、そんだけまちがえているのかなということで、それはやっぱり認知症の病気かなということも、自分で分かるようになってきました。」(永田久美子:認知症の人とともにつくるまちづくり. 老年看護学 Vol.17 24 2013)
 永田久美子さんが初めて佐野光孝さんにお会いした際、「今いちばんの気がかりは何ですか?」とたずねると、「妻がひとりでいろいろがんばって、自分がどんどん世話になる一方になるのはつらい」と語ったそうです。それで光孝さんは、発症前にはゴミ捨て以外はほとんどやらなかった家事にも挑戦するようになったそうです。妻の明美さんを少しでも楽にするために何かできることはないかと考えて、奥さんが朝、起きる前にご飯を炊いておくことも思いついたそうです。
 認知症になるとできないことが増える一方と思われがちです。しかし、光孝さんの場合には、発症して以降、できることの範囲が広がっていったのです(永田久美子:認知症の人とともにつくるまちづくり. 老年看護学 Vol.17 23 2013)。


朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第485回『患者の声が聞こえていますか?─患者は貴重な社会の構成員』(2014年5月5日公開)
 NHK・Eテレにおいては、2013年7月1日・2日・3日・15日・25日の5回にわたって、『シリーズ 認知症 “わたし”から始まる』が放送されました。7月25日のシリーズ最終回放送(http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/calendar/2013-07/25.html)においては、佐野光孝さんのケースが紹介されました。
 佐野光孝さんについては、シリーズ第154回『認知症のケア─できなくなることは増えても自分は残っている』)においてもご紹介したことがありますね。
 佐野さん(64歳=番組放送時)は58歳の時に「若年認知症」と診断されました。デイサービスの見学に行ったものの、歌や体操などの決められたメニューには馴染めませんでした。家に閉じこもる生活だけは避けたいと考えた佐野さんが相談に訪れたのは富士宮市役所でした。当時、佐野さんの相談にのったのは、稲垣康次さんでした。悩んだ末に稲垣さんたちが思いついたのは、観光案内所のボランティアでした。佐野さんの趣味が名物「富士宮やきそば」の食べ歩きだと聞いて、その趣味を活かしてもらおうとひらめいたのです。佐野さんは、この観光案内所のボランティアでかつての生きがいをつかんだのです。なお、佐野さんが通っていた観光ボランティアセンターは2012年3月をもって閉鎖され(稲垣康次:当事者と共につくる個別ケアと地域包括ケアのダイナミックな連動─行政事務職の立場から考える. 看護研究 Vol.46 294-302 2013)、その後は、シルバー人材センターの家事援助サービスの仕事を行っているそうです。
 富士宮市では、介護保険のサービスにとらわれず、認知症の人の声を尊重して暮らしをサポートしているのです。
 シリーズ第170回『深刻化する認知症患者の長期入院 住み慣れた地域のサポートがカギを握る』)においては、富士宮市における「わたしの手帳」という取り組みを紹介しましたね。「わたしの手帳」は、高齢者・認知症の人たちが自身の生活を記録し医療・ケア関係者に伝え、自分らしく暮らしていくための連携ツールであり、本人と家族、医師、そして地域の多様な支援者との架け橋になっております。
 2013年7月25日の『シリーズ 認知症 “わたし”から始まる』最終回放送にゲスト出演されたタレント・エッセイストの小島慶子さんはシリーズを振り返って、「認知症って言葉の中に、知らず知らずのうちに持っていたネガティブなイメージあるいは思い込みというのが、認知症の人をこんなに見えなくさせてたんだなぁ…というのが一番大きな気づきでした」と感想を述べておられました。
 「私たちは、一般的によくある誤解に挑戦したいと思います。認知症によってその人の人格が永久に、そして不可避に崩壊されてしまうという誤解です。機会を提供されれば、認知症がある人は、その社会集団の貴重な構成要員として機能することができ、自分自身の生活へのコントロールを再び獲得する可能性があるのです。これを達成する障害となっているのは、彼らに何ができて何ができないのかという私たちの限定された見方なのかもしれません。
 私たちの経験によって促されるのは、認知症がある人のその人らしさや個性について自分たちの偏見を再度検証し、そして彼らがその真の可能性を発揮することを私たちが引き留めてしまっているのかもしれないと自問することです。その人らしさが損なわれることは、通常、認知症の影響によって説明されます。しかしながら明らかなことは、認知症がある人がさらされている否定的な態度によってもまた、大いに損傷がもたらされているのです(McGregor I, Bell J:Voyage of discovery. Nursing Times Vol.89 29-31 1993)。」(マルコム・ゴールドスミス:私の声が聞こえますか─認知症がある人とのコミュニケーションの可能性を探る 高橋誠一/監訳 寺田真理子/訳 雲母書房, 東京, 2008, p57)
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