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単純痴呆 dementia simplex [認知症]

大井 玄:「痴呆老人」は何を見ているか

 大井玄さんが2008年に書かれた「『痴呆老人』は何を見ているか」を読み進めています。

 私が購入したのは2014年3月10日発行の21刷です。以前から読みたかった本なのですがなかなか入手できなかった本です。
 この本の前書きの冒頭部分をご紹介しましょうね。

 世界とつながって生きるのは大変な作業である、と思うようになりました。
 わたしは人生の終末を歩む人たちを診ているのですが、そのなかには認知能力の衰えた方がたくさんおられます。いやわたし自身、認知能力の中核である記憶力が衰えつつあるのを痛感します。
 言うまでもなく、私が周りの世界につながっているためには、見たもの、聞いたこと、喋ったことを記憶しており、ここが何処で、いまは何時なのかなど見当がついていなければなりません。このつながりの喪失が、認知症の人に「不安」という根源的情動を抱かせることになります。怒りや妄想などは、存在を脅かすその不安が形を変えたもののように見えます。とは言うものの認知症の人たちは、私たちが「世界」と信じている世界と厳密につながらなくとも、それぞれの世界を記憶に基づき創りあげ、そこに意味と調和を見出している場合も多いのです。
 …(中略)…
 本書は、岡野守也氏の主宰する教育心理研究所の機関誌『サングラハ』に連載してきた「痴呆老人と共にいて」を手直しし、纏めたものです。もともとは、以前に出た『痴呆の哲学』(弘文堂)をぐっと平易にして書いてもらいたいという岡野氏の注文でした。したがっていくつかの事項は重なるところもありますが、先著とは違う視点をも取り入れています。
 また連載は「痴呆症」が「認知症」に変えられる前から続いていたこと、「認知症」が用語としてきわめて不完全であること(第二章参照)から、必要な場合には「痴呆」を残しました。その最大の理由は、われわれは皆、程度の異なる「痴呆」であるからです。
 【大井 玄:「痴呆老人」は何を見ているか. 新潮新書, 東京, 2008, pp7-9】


「沖縄の純粋痴呆」
 杉並の例は、個々の家庭での現象だという異論も出るでしょう。しかし、同じころ沖縄県島尻郡佐敷村で琉球大学精神科(当時)の真喜屋浩先生が行った調査報告は、環境さえよければ、その地域全体の知力が低下した老人が、他人に迷惑な周辺症状を現すことなく、おだやかにふつうに過ごすことができることを強く示唆しています。
 真喜屋先生は村の六五歳以上の老人七〇八名(男二六八名、女四四〇名)全員について精神科的評価を行ったのですが、あきらかに「老人性痴呆」と診断できる人が二七名(全体の四%)で東京都での有病率と変わりません。しかし全症例を通じて、うつ状態や妄想・幻覚・夜間せん妄症状を示した人はいなかったのです(但し統合失調症と思われる一例があった=註②)。これは当時の東京都の調査結果と比べると信じがたい知見です。東京では「痴呆老人」の二割が夜間せん妄を現し、半数に周辺症状がありました(註③、④)。また沖縄ではうつ状態がまったく認められなかったが、アメリカでは痴呆の四分の一から半分にうつがあると報告されています(註⑤)。
 杉並と沖縄に見られた、周辺症状のない穏やかな痴呆状態(学術用語では単純痴呆dementia simplexと呼ばれますが、わたしは「純粋痴呆」と呼んでいます)をもたらした要因は何でしょうか。真喜屋先生は、このように考察しています。
佐敷村のような敬老思想が強く保存され、実際に老人があたたかく看護され尊敬されている土地では、老人に精神的葛藤がなく、たとえ器質的な変化が脳におこっても、この人たちにうつ状態や、幻覚妄想状態は惹起されることなく、単純な痴呆だけにとどまると考えられるのである」(註②参照)。
【大井 玄:「痴呆老人」は何を見ているか. 新潮新書, 東京, 2008, pp35-37】
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