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認知症の私からあなたへ─20のメッセージ [読書]

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 【佐藤雅彦:認知症の私からあなたへ─20のメッセージ. 大月書店, 東京, 2016, p:?=3枚目】

現代語訳『葉隠』(抄)─五〇 [読書]

現代語訳『葉隠』(抄)─五〇

 ある者の昇進の会議で、以前大酒を飲んで暴れたことがあるとの理由により、昇進見送りと衆議が一決しかけたとき、その場の一人が発言した。

 「一度の過ちくらいで見捨てられては、人物も育ちますまい。一度過ちをおかした者は、それを後悔しておりますゆえ、かえって身をつつしみ、御用に立つものと思われます。どうか昇進させてください」
 貴殿、その者の責任をもちますか」 別の一人が言った。
 「しかと、それがし保証します」
 「どのような理由で、保証すると言われるのか?」と、他の人々も聞いてきた。
 「一度、過ちをおかした者ゆえ、保証するのです。一度も間違いのない男は、かえって危なく思います」と答えたので、その男の昇進が決定したという。
 【松永義弘:葉隠. 教育社, 東京, 1992, pp95-96】

P.S.
 もう20年以上前に読んだ本です。とても印象深い本ですので保存してあります。
 
 『葉隠』は、心中に知仁勇を培い、恥をしれ、誇りを持て、「知は人の話を聞くこと。仁は人のために成すこと。勇は歯をくいしばること」という。こうした武士の徳義を説いたのが『葉隠』である。【松永義弘:葉隠. 教育社, 東京, 1992, p3】

鬱屈精神科医、占いにすがる [読書]

春日武彦さん.jpg 2月10日に購入しました『鬱屈精神科医、占いにすがる』、ようやく、「まえがき」を読み終えました。

 不安感や不全感や迷い──そういった黒々として不透明なものが心の中に広がってくると、耐え難い気分になる。我慢にも限度があるし、努力で乗り越えられるくらいならばそもそも問題にならない。無力感と苛立ちとよるべなさに、打ちひしがれる。
 気分転換を図ろうにも、それが気休めに過ぎないことが分かっているから踵(きびす)を返してしまう。いっそ心の病気であったなら、よほど割り切ることができそうだが、病的ではあっても病気ではないらしいところがかえって出口のない事態に思える。向精神薬を服用することで、抗生物質が細菌を駆逐するように心の中の不透明なものを払拭してくれればいいのに、そんなハッピーな顚末など期待できないことは、仕事柄、熟知している。

 わたしは右に述べたような「不安感と不全感と迷い」に精神を覆い尽くされた状態に陥っている。生まれて物心がついて以来、ずっとそんな調子であり、心の底から笑ったことなんて一度もない。しかもここ五年くらいが、ことさらに不調である。幸か不幸か、うつ病というわけではない。性欲や物欲のあるうつ病は、医学的にはあり得ない。診断的には、パーソナリティーの問題といったあたりの話になるだろう。つまりこの苦しさは自己責任ということになる。神も仏もない。
 …(中略)…
 妻に愚痴をこぼすことは多い。彼女はベテランのナースだし、いろいろな人から相談を
持ちかけられがちなタイプだ。ましてや彼女はわたしの「取り扱い」に慣れている。だからこそ癒される部分もあるが、やはりそれは応急処置のレベルでしかない。自分の心の闇を配偶者にすべて開陳するのは賢明ではないと考えているので、妻さえいれば大丈夫とはならない。友人についても同様である。
 いささか病的な自分なのだから、カウンセラーのところへ行くのもひとつの方法かもしれない。が、わたしは彼らの手の内を知っている。それに、いわば同業者に悩みを打ち明るのは気が進まない。向こうだってやりにくいだろう。お手並み拝見、と腹の底で眩いているかのような最低最悪のクライアントと目されるに違いない。いっぼう自分で自分にカウンセリングを行うなんてことは、脳外科医が自分の脳を手術するようなもので無理が
ある。
 …(中略)…
 おそらく、占いに頼ってみるのはわたしにとって居直りなのである。世間への恨み、運
命への怒り、人生への失望そうしたものへ占いという「いかがわしげ」な方法をもって立ち向かうことで、嘲笑を投げつけてやろうとしているのだ。おまけに、もしかすると占いに未知の何かが宿っている可能性は否定できまい。まあそういったものに期待し過ぎるとアブナい人になりかねないが、冗談半分と言いつつも妙に真剣な目つきでわたしは占い師のもとを訪ねてみたのだった。
 占いに頼る心性の根にあるのは「卑しさ」だと思う。自分が陥っている苦境の理由を単純明快に説明してくれるのではないかという期待(もちろん自己責任なんか問われずに)、これからは今までの辛さや苦しさが嘘のように消失するどころか利子までついて運勢が盛り返すでしょうという託宣(たくせん)への期待、自分が貴種流離譚の主人公であるかのような絵解き、わたしが漠然と期待しているのはそのようなものなのである。素面(しらふ)では、そんなものを期待なんかできない。にもかかわらず、それを叶えてくれるかもしれないと期待させるあたりに、おそらく占いにまつわる「いかがわしさ」の原因の一端があるに違いない。
 自分の弱さも卑しさも認めたうえで、わたしは占い師のところへ赴いた経験を語ってみたい。それと絡めて人の心の働きや癖について考えてみたい。占いが当たるのか否かといったことについても考えてみたい。
【春日武彦:鬱屈精神科医、占いにすがる. 太田出版, 東京, 2015, pp2-7】

 面白そうですね。週末に少しずつ読んでいこうと思います。
 ただ、「認知症JR事故」関係でちょっと忙しくなる予感がしておりますので読書の時間が確保できるかどうか・・。
 私がこの本の内容を信じる理由は、「性欲や物欲のあるうつ病は、医学的にはあり得ない。」と断言してあるからです。多くの医学書を読みましても、なかなかその部分には触れられていませんが、私は「うつ病」の期間、間違いなく「インポ」でした! ですから本物の「うつ病」だったのでしょうね。「で、今は?」 その質問は、飲み会の時に直接聞いて下さいね。

P.S.
 それにしても難解な日本語が多いですね。文才のない直球勝負の私にはこの本を読むのは修行みたいなものです。
貴種流離譚:
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E7%A8%AE%E6%B5%81%E9%9B%A2%E8%AD%9A

鬱屈精神科医、占いにすがる [読書]

 2月10日、『鬱屈精神科医、占いにすがる』が書店に届き、早速、受け取りに行ってきました。
 「まえがき」の冒頭部分(=以下にご紹介します)だけ読みましたが、ちょっとワクワクしますね。


 不安感や不全感や迷い──そういった黒々として不透明なものが心の中に広がってくると、耐え難い気分になる。我慢にも限度があるし、努力で乗り越えられるくらいならばそもそも問題にならない。無力感と苛立ちとよるべなさに、打ちひしがれる。
 気分転換を図ろうにも、それが気休めに過ぎないことが分かっているから踵(きびす)を返してしまう。いっそ心の病気であったなら、よほど割り切ることができそうだが、病的ではあっても病気ではないらしいところがかえって出口のない事態に思える。向精神薬を服用することで、抗生物質が細菌を駆逐するように心の中の不透明なものを払拭してくれればいいのに、そんなハッピーな顚末など期待できないことは、仕事柄、熟知している。

 わたしは右に述べたような「不安感と不全感と迷い」に精神を覆い尽くされた状態に陥っている。生まれて物心がついて以来、ずっとそんな調子であり、心の底から笑ったことなんて一度もない。しかもここ五年くらいが、ことさらに不調である。幸か不幸か、うつ病というわけではない。性欲や物欲のあるうつ病は、医学的にはあり得ない。診断的には、パーソナリティーの問題といったあたりの話になるだろう。つまりこの苦しさは自己責任ということになる。神も仏もない。
【春日武彦:鬱屈精神科医、占いにすがる. 太田出版, 東京, 2015, pp2-7】

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