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最期の医療─認知症 意思どう確認 [終末期医療]

最期の医療─認知症 意思どう確認

 枕草子に「七栗の湯」として登場する津市の榊原温泉の近くに榊原白鳳病院があります。もの忘れ外来の認知症専門医笠間睦さん(57)は4月、定期的に診察する認知症患者の意向を確認していました。
 「『人生の最終段階における医療』に関する意識調査」です。「口から食べられなくなった時にどのような医療を希望しますか」と患者に尋ね、「自然な最期」「末梢からの点滴」「(鼻から管を通し人工的に栄養を流す)経鼻経管栄養」「(胃に穴を開け体外から通した管で栄養剤を入れる)胃ろう」「高カロリー輸液」「医師に任せる」「その他」から選びます。患者が答えられない場合は家族が答えます。
 認知症患者に最期の医療の希望を聞くこと自体が珍しい試みです。2年前も29人の患者に同じ調査をしました。「自然な最期」と「点滴」が合わせて18人、経管栄養や胃ろうを希望した患者はいませんでした。
 2年前にも調査を受けた人が今回8人いましたが、みな前の調査を覚えていませんでした。それでも、それぞれ前回と同じ項目を選びました。「患者が尊厳ある生を全うするため、判断力が衰えても定期的に意向を確認することが大切だ」と笠間さんは言います。

「代行判断」=家族の希望?
 認知症患者の「最期の医療」の選択には独特の難しさがあります。選択にあたっては患者本人の意向の確認が不可欠ですが、選択を迫られる時点では本人の判断能力が落ち、意思表示できない場合があります。あるいは、意思が示されても「本当に本人の希望とみなしていいのか」という疑問がつきまとうといいます。
 厚生労働省の「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」によると、患者の意思・事前指示の尊重が最優先で、それが明確でない場合、次善の策として、患者の意思を推定して代行判断します。推定できなければ家族・医師が、患者の最善の利益を判断することになります。でも、日本の医療現場では、患者の代行判断のはずが、家族や医師の希望がそのまま最期の医療の方針となることが往々にしてあります。笠間さんは「家族だけでなく医師も『代行判断』をはき違えている」と話します。

希望抱ける告知が大切
 こうした事態を避けるため、認知症がまだ進んでいない初期の段階に、あらかじめ患者の希望を聞いておく必要があります。ただ、その前段の患者への告知は十分には行われていないのが実情です。2010年に首都圏の認知症患者の家族を対象に行われた調査で、本人に病名が告知されたのは半分以下。終末期の説明がされたのは「ある程度」を含めても2割でした=グラフ。
 調査した首都大東京教授で認知症治療の第一線に立つ繁田雅弘さんは、「告知は増える傾向にあり、よいことだ」としながらも、一方で「『アルツハイマー病です。治らない病気です』などと、行き届かない告知をされ、混乱したり落ち込む方もおられます」と言います。
 繁田さんは、患者が今後に希望を抱ける説明を心がけるべきだといいます。「放置すれば早い段階で物忘れが激しくなりますが、適切な治療とよいケアを受ければ、軽症か中程度の症状のまま、自分らしい人生を全うできます」という具合に。そのように医師が患者との間に信頼関係を築いた上で、患者の「最期の医療」に医師と患者がともに思いをはせてみる。そうすれば「徐々に患者は最期のあり方を考え、死を見つめるようになる。その思いを家族や医療者と共有すれば終末期医療に反映される」と繁田さんは言います。

難しい「終末期」の定義
 認知症患者の「最期の医療」には、別の大きな問題もあります。「どの段階からを終末期とするのか、判断が難しい」(会田薫子・東大特任准教授)ことです。
 笠間さんが担当する女性患者(83)は、アルツハイマー病が進み肺炎を併発して6年前に入院。以来、意識が戻らないまま「一日でも長生きしてほしい」という家族の希望で鼻からの管を通して栄養を受け続けています。「入院時に病状からすでに終末期だと判断した」と笠間さんは言います。しかし、丸6年、栄養を受け続ける状態に「これを人生の最終段階と判断していいのか」という疑問も浮かぶそうです。 (畑川剛毅)

私の感想
 畑川剛毅様、良い記事に仕上げて頂きまして誠にありがとうございます。
 5時間超に及ぶ長い取材でお疲れだったことと思います。

 さて、「『入院時に病状からすでに終末期だと判断した』と笠間さんは言います。」の部分ですが、アルツハイマー病末期の定義覚えておられますか?
 以下に詳しくまとめましたのでご参照下さい。
 http://akasama.blog.so-net.ne.jp/2016-05-21-1
 http://akasama.blog.so-net.ne.jp/2016-05-22
 https://www.facebook.com/photo.php?fbid=587386704764346&set=a.530169687152715.1073741826.100004790640447&type=3&theater¬if_t=like¬if_id=1463863248723645
 アルツハイマー病の自然経過に関しては、FAST(Functional Assessment Staging of Alzheimer's Disease)を参考にされるとよいでしょう。FASTは、日常の行動観察から重症度を評価するスケールです。

 「http://akasama.blog.so-net.ne.jp/2016-05-21」におきまして私は、以下のように書いております。
 「経腸栄養で何年も遷延性意識障害で生き続けるアルツハイマー病末期(?)の患者さんを見ておりますと、『これで本当に良かったのかな・・』とも感じており、この部分では私も明確な結論を出せずにおります。
 『胃瘻などの経管栄養を行っても約1年で死に至ることが多いは本当か?』(http://akasama.blog.so-net.ne.jp/2016-02-01-2)でご紹介しておりますFASTのステージ7e(笑う能力の喪失)の女性患者さん(入院時77歳)、2016年4月で入院して丸6年が経過しました。
 6年間寝たきりの遷延性意識障害(植物状態)で過ごす患者さんを見ておりますと・・。
 この患者さんは、発症してからしばらくして私の外来に通院するようになった方で、初診の時点で“病識”の面で既に問題がありましたので、告知せずに来た方です。
 終末期における治療方針は、私と娘さんが話し合い、私が娘さんの意向を尊重する形で決めた方針です。
 娘さんは今も後悔していないと私は思います。最近の心情はお聞きしておりませんが・・。」

 しかし、朝日新聞社の畑川剛毅さんの取材日に、娘さんの今の心情をお聞きすることができました
 この日の取材は、娘さんの心情をお聞きする機会も与えてくれました。
 娘さん、こんな風にお話されました。
 後悔どころか感謝しています。」  娘さんにとっては、お母さんの「存在」そのものが尊いとのお話でした。そして、「音楽を聴かせるとかすかに反応が違い、本人は、私が病室に来ていることを分かってくれているように思います。」と話してくれました。

 娘さんの話をお聞きして、私は高山義浩先生が2013年6月19日に朝日新聞医療ブログ・アピタル『直観の濫用としての“胃ろう不要論”』で語った以下の言葉を思い出しました。
 「私は胃ろう推進論者ではありませんが、胃ろうを選択した方々が後ろめたさを感じることがないよう配慮したいと思っています。寝たきりでも、発語不能でも、それで尊厳がないと誰が言えるでしょうか? コミュニケーションできることは『生命の要件』ではありません。胃ろうを受けながら穏やかに眠り続けている…。そんな温室植物のように静謐な命があってもよいと私は思うのです。」
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