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あら、まったく大丈夫そうじゃない症候群 [認知症ケア]

「私は家族を殺した “介護殺人”当事者たちの告白」─1
 https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160703

 24%って何の数字か分かりますか?
 介護の当事者にしか分からない辛さを如実に表す言葉、『あら、まったく大丈夫そうじゃない症候群』を覚えてますか?
 番組の中でもナレーションが流れましたよね。「家族が何人居ても介護者は一人だけです」って・・。
 介護殺人の「予兆」を見逃さないことってかなり困難な課題のように感じます。75%において介護サービスは導入されており、決して孤立していたわけではないと思うのですが・・。
 特養入所基準「要介護3以上」の壁(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160702-00000003-mai-soci)が改めて浮き彫りになりましたね。

朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第144回『認知症のケア 「あら、まったく大丈夫そうじゃない症候群」』(2013年5月18日公開)
 若年性アルツハイマー病の夫を介護したアメリカ人女性のジョアン・コーニグ・コステさんが書かれた本においては、「介護することに対して周囲の理解が得られない」ことについて言及されています。『あら、まったく大丈夫そうじゃない症候群』と名付けられた状況を以下にご紹介しましょう(ジョアン・コーニグ・コステ:アルツハイマーのための新しいケア─語られなかった言葉を探して 阿保順子監訳 誠信書房, 東京, 2007, pp213-216)。
 「友人や家族といえども、彼らの行動があなたにとって良いことばかりとは限りません。私がよく見かける一つの特徴は、『あら、まったく大丈夫そうじゃない症候群』と名付けた状況です。友人や親戚などは彼らの見たいところだけを見るため、あなたがどれだけ厳しい状況にあるかといったことに関しては理解できないことが多いのです。一人のケアパートナーが、マーガレットという女性について話してくれたことがあります。彼女は、アルツハイマー病を患っている従兄と一時間半ほどの時間を過ごし、帰り際に『彼、元気そうだわね』と言ったそうです。しかし、マーガレットは従兄に話をさせる機会すら与えなかったといいます。彼は確かに『元気そう』に見えました。それは、マーガレットが来る二十分前に、その日の三度目の着替えを済ませておいたからなのです。こうした訪問の最後に、訪問者がケアパートナーを振り返り、基本的な質問をすることがあるでしょう。『いったい、(患者と一緒にいることの)何が大変なの』と。
 こうした状況は、親がアルツハイマー病を患い、成人している子どものうちの一人がケアパートナーとなっている場合によく起こります。忙しいか遠くに住んでいてなかなか会いに来られなかった他の兄弟が、その大変な状況にようやく立ち会わされたとき、彼らは必ずこう言うのです。『こんなに長い間、あなたがどうやって乗り越えてきたのか、想像もできないわ』。そうなれば、彼らはとても役立つ助っ人となるでしょう。先に述べた誤解は、彼らがあなたの立場に立たない限りはどうしようもないのです。アルツハイマー病患者が、親戚と2~3日、一緒に生活をすることもできるでしょう。また親戚の人たちが、あなたが仕事か何かでいない間の面倒をみることもできるでしょう。
 しかし多くの場合、人びとは否定や拒絶することでのみ、アルツハイマー病患者に対処しようとするのです。このような訪問者には、あまり来てもらわないほうが得策です。」(一部改変)


朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第145回『認知症のケア 介護者を支えるという大切なこと』(2013年5月19日公開)
 飯能老年病センターの黒澤尚(くろさわひさし)名誉院長(日本医科大学名誉教授)は、介護者を支えることの重要性について語っています。一部改変して以下にご紹介しましょう。
 「お嫁さんは苦労しているわりには評価されていない。やって当たり前だと思われている。他の家族から非難の対象となっていることが多い。わかってもらえていない。嫁に行った娘からはたまにそれも数時間しか見ていないのに、簡単に『ぼけていない』と言われる。それどころか介護の仕方が悪いと陰口を言われている。夫も任せたと言って逃げている、などなど。
 そこで、お嫁さんの不満や愚痴を聞くようにする(話しやすいようにする)。不満もあれば、十分介護できていないという罪の意識をもっているお嫁さんもいる。状況に応じて、以下のように話をしている。
 みな精一杯それなりに努力しているのだとその努力を認めてほめる。実際には、お嫁さん、あるいは妻に『これまで、よく頑張りました。これからは少し手を抜きましょう。手を抜くことで申し訳ないと思わなくていいんですよ。私の指示ですから』と告げる。そして、これまでの頑張りに対して、私が『頑張りましたで賞』を差し上げます、と表彰状を渡す真似をする。ここで、同伴の介護者(お嫁さん)の1/3くらいの人は涙。ティッシュを渡しながら、『この診察室ではいくら泣いてもよい。ここから出たらもう泣かないのよ』と約束させる。そして、同伴の夫の様子を見ながら『旦那に“ありがとう”と言ってもらったことがあるか』と同伴の妻に開く。多くは『ない』と答える。『ない』と言われた夫には『ここで“ありがとう”を言ってしまいましょう』と勧める。『ありがとう』が出る人もいる。出ると、お嫁さん(妻)はさらに涙ぐんでしまう。同様に『婆ちゃん、お嫁さんにありがとうでしょ』と勧めると、お婆ちゃんの『いつも世話になって…』でお嫁さんは涙ぐんでしまう。お金や物品ではなく感謝の言葉なのだが、夫からはそれがなかなか出ない。」(黒澤 尚:認知症をめぐる臨床的な諸問題─高度(重度)認知症にも目を向けよう─. 老年精神医学雑誌 Vol.23 1208-1217 2012)


朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第737回『分かる言葉で伝え、支持する―遠距離、地域に委ねる決意』(2015年1月18日公開)
 最後に、このシリーズのテーマからは少々外れますが、「遠距離介護」の問題について触れたいと思います。
 松本診療所ものわすれクリニックの松本一生院長(元大阪人間科学大学教授)は、遠距離にも関わらずケアがうまく続けられた事例のポイントについて以下のように言及しております(朝田 隆編集:認知症診療の実践テクニック─患者・家族にどう向き合うか 医学書院, 東京, 2011, pp145-146)。
 「まず、遠距離でのケアには人手がかかる。たとえ距離が離れていなくても在宅で認知症の人がケアを受ける際、介護者に過重な負担がかかりすぎないようにするためには、最低でも2.5人の人手を要するものである。まして遠距離であれば、遠くから来る介護者、近くに住む介護者が協力し合わなければケアは行き詰まりやすい。
 しかし、遠距離でしかも本人の近くに住む介護者の人手が全くないような場合にもケアがそれなりにうまく続けられるコツがあった。それは介護者が遠距離にいるという事実を認め、『自分にできることには限界がある』と悟って、足りないぶんを本人の住む地域の支援者に任せることができた場合である。
 筆者がこれまでに支援した遠距離介護のなかには、介護者がニューヨークに移り住んで30年になり、日本にいる父親が80歳でアルツハイマー型認知症になっているというケースもある。その際、介護者である息子は自分の仕事の関係でどうしてもニューヨークを離れることができない事実から目をそらさなかった。父親もこの歳でニューヨークに呼び寄せるわけにはいかない。そこでその息子は、日本の父親が生活している地域で医療、介護保険のサービスをできるだけ活用して、自分ではできないことを見極めて、支援者に委ねる決意を固めたのである。息子は筆者に言った。『こうして遠方にいると、自分にはできることに限りがあると自覚し、家族ほどではないが家族に準じて私が信頼感をもつことができる父親の近くの専門家にお任せすることで心の整理ができました。』
 息子が遠距離をおしてでも自分だけでケアすることは不可能であっただろう。むしろ他人に任せることができて初めて心にゆとりができたのである。このような場合、家族ではないが家族に準じて信頼感をもつことができる支援者をもつことで、その父と息子は拡大家族ネットワークを作りあげたのである。」
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