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終末期医療を巡る諸問題―定義、法律、現状・・ [終末期医療]

朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第110回『終末期への対応 アルツハイマー型「末期」は、どこからか』(2013年4月14日公開)
 それでは平原佐斗司医師が実施している嚥下反射の客観的評価方法についてご紹介しましょう。
 「われわれは、簡易嚥下誘発試験(Simple Swallowing Provocation Test:S-SPT)や3cc水のみテスト、頸部聴診法などを組み合わせて用いることで、嚥下反射の有無を判断しています。これらの方法は簡便で、ほとんどの患者に苦痛なく実施することができます。
 S-SPTは口腔内清拭後、臥位にて施行します。細径のエキステンションチューブを中央で切り5ccシリンジと接続し、内部に水道水を充填します。チューブ先端を中咽頭に挿入し、0.4cc、1cc、2ccの順に水を注入し、注入から嚥下反射誘発までの時間を測定します。健常者では0.4ccの少量の水の注入で嚥下反射が誘発されます。一方、2ccの水の注入で、潜時(注入から嚥下反射誘発までの時間)が3秒以上あるいは嚥下反射がみられない場合、嚥下反射の極度の低下あるいは消失と考えられ、経口摂取は困難であると考えられます。」(平原佐斗司編著:認知症ステージアプローチ入門─早期診断、BPSDの対応から緩和ケアまで 中央法規, 東京, 2013, pp297-298)
 一方で、FAST7d,e,fを「末期」とする考え方もあります。この辺りがきちんと統一されておりません。
 東京大学大学院医学系研究科医療倫理学分野の箕岡真子医師は、「アルツハイマー病単独の場合には、FAST分類7(d)(e)(f)であれば終末期と判断してもよいと思われる。またアルツハイマー病そのものが終末期でない場合でも、何らかの身体的衰弱や摂食不良をきたす他の疾患の合併がある場合には終末期と判断される可能性もあり、個別のケースごとに担当医師の適切な診断が必要となる。とくに、延命治療を差し控えたり中止したりする場合には、倫理的には2人以上の医師による適切な判断が求められる。」(箕岡真子:認知症の終末期ケアにおける倫理的視点. 日本認知症ケア学会誌 Vol.11 448-454 2012)と指摘しています。


朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第119回『終末期への対応 米国のある医療倫理に関する模擬問題』(2013年4月23日公開)
 さてここで皆さんにクイズを出題しましょう。アメリカの医師国家試験(アメリカでは州単位なので厳密にいえば州の資格試験)において出題された医療倫理に関する模擬問題です。正解が1つありますので、a~eの中から正解を選んでみて下さい(樋口範雄:終末期医療と法の考え方. 老年精神医学雑誌 Vol.24 増刊号-Ⅰ 139-143 2013)。
 「84歳の女性が腹痛で入院した。入院2日目に彼女は、腸穿孔による熱、重度の低血圧、頻脈状態になった。患者は、自分の病状を理解する能力のまったくない状態であった。その後48時間にわたって抗生物質、水分、ドーパミンを投与したが、効果はなく、重度の無酸素性脳症の徴候がみられた。医療代理人(healthcare proxy)は指名されていなかったが、患者が自分で話すことができたならば自身のために希望したであろうことについて、家族間で一致した合意があった。家族の指示により止めることができないものは、以下のうちのいずれか。
 a. 人工呼吸器
 b. 血液検査
 c. ドーパミン
 d. 水分および栄養補給
 e. なにもない(つまり、すべて中止することができる)」

 東京大学大学院法学政治学研究科の樋口範雄教授がこの問題の正解について端的に解説しておりますので以下にご紹介しましょう(樋口範雄:終末期医療と法の考え方. 老年精神医学雑誌 Vol.24 増刊号-Ⅰ 139-143 2013)。
 「正解は最後のeである。そこには『困惑』はない。明らかな医療倫理上の正解が存在すると考えられている。もちろんそこに法の出番はない。裁判所に行く必要もなければ、水分や人工呼吸器を外したことで警察が介入することもない。
 なぜか。それは、患者サイドでは終末期医療における『自己決定』を尊重することがまさに医療倫理と考えられていること、さらに、医療サイドでは、無理な延命は、医療倫理に反することであり、医療にも一定の限界がある(それを越えた医療はfutility=無益)と考えられているからである。」
 自己決定が最優先されることに関しては、「ひょっとして認知症? Part1─改めて尊厳死、平穏死を考える(第325~337回)」において詳しくお話しました。リンク先のファイルの冒頭に記載しておりますように、「自己決定権の尊重という、医療倫理上もっとも重要な原則に照らす限り、患者本人の意思が明瞭に示されている場合に延命治療の中止を認めるかどうかが議論の対象となることはありえない。議論の対象になるとすれば、それは、昏睡患者などで、患者本人に意思を表明することができない場合だが、その場合でも、米国の判例は『昏睡患者などで本人に意思を表明することができない状況においても、その自己決定権の行使を保証する』という立場をとり、近しい家族による本人の意思の推定を、きわめて合理的な手段として受け入れている。」のが米国の現状でしたね。
 一方で、筑波大学大学院人間総合科学研究科生涯発達科学の飯島節教授は、自己決定原則の限界についても言及しておりますので以下にご紹介します(飯島 節:高齢者医療に必要な法律的知識. 2013.3.23発行日本医事新報No.4639 42-45)。
 「いずれのガイドラインにおいても、それが現在のものであるか病前のものであるかにかかわらず、患者自身の自己決定を最優先している。しかし、和を尊び自己主張を抑制することを美徳とする我が国の高齢者には、自己決定を避けて、信頼できる誰かに決定を委ねようとする傾向もある。米国においても、ほとんどの患者は自己決定権を行使したいとは思っていないという指摘もあり、自己決定に頼りすぎることの弊害も説かれている(マーシャ・ギャリソン:ケース・スタディ生命倫理と法 第2版, 樋口範雄 編著, 有斐閣, 2012, p377)。」

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 皆さん、2013年4月3日に放送されましたクローズアップ現代・No.3328『“凛とした最期”迎えたい~本人の希望をかなえるには~』(http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3328.html)観られましたか?
 放送においては、治る見込みがなく死期が迫っている(6ヶ月程度あるいはそれより短い期間を想定)と告げられた場合の延命医療について、37.1%の人が「延命治療を希望しない」と回答したことが紹介されており、国谷裕子キャスターは、「延命治療(主に、人工呼吸器、人工栄養、心肺蘇生)を希望しない人は、10年間で2倍に増えた。」と解説しておりましたね。
 「治る見込みがない場合の延命医療について」の調査結果(平成20年厚生労働省調べ)の詳細はウェブサイト(http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000000vj79-att/2r9852000000vkcw.pdf)において閲覧可能です。pdfファイルp17(図19)をご参照下さい。
 そしてその放送の中でスタジオコメンテーターとして出演された日本臨床倫理学会理事長の新田國夫医師のコメントは印象的でした。
 「『家族に迷惑をかけたくない』と意思表示される方が確かに増えています。しかしながら、それが本当に自分の生き方なのか、家族をおもんぱかってなのか(その判断は)非常に難しいのですが…。」


朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第120回『終末期への対応 慢性疾患の終末期の定義化は難しい』(2013年4月24日公開)
 終末期の定義に関して、日本老年医学会の「高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン─人工的水分・栄養補給の導入を中心として」作成に深く関わってきた東京大学大学院人文社会系研究科死生学・応用倫理センター 上廣死生学・応用倫理講座の会田薫子特任准教授(論文執筆当時の肩書きは、東京大学大学院人文社会系研究科グローバルCOE「死生学の展開と組織化」特任研究員)が書かれた印象的な記述がありますので以下にご紹介しましょう。
 「終末期医療の調査研究にあたる者にとって、終末期をどう定義するかは仕事の第一歩である。研究対象について焦点を絞ることと研究にかかわる概念を明確化することなしには、研究計画すら立てることができない。そのようなわけで、終末期医療の研究者としては、研究対象の定義化にはそれなりに時間を使ってきた。
 しかし、悪性疾患と異なり、慢性疾患の終末期の定義化は困難であり、数値で表現することは不可能かつ不適切との指摘もある。そこで、数値を使わずに疾患の進行段階で示すこともある。例えば、認知症の終末期の定義は、それがアルツハイマー型であればFASTの7-(d)の『座位維持能力の喪失』以降というのが海外学術誌上では標準的とみられる。一方、脳血管疾患型認知症の進行は様々なので、終末期の定義は非常に難しく、頭を悩ませる
 しかし、先日、ある事例検討セミナーで会った看護師の一言にハッとさせられた。それは、脳梗塞を繰り返し、意思疎通困難・摂食嚥下困難で、概ね寝たきりで経鼻経管栄養法を受けていた患者の例であった。
 患者は経鼻経管を嫌がり、毎日引き抜いてしまう。主治医は予後は半年以上とみて、患者の家族に胃ろう造設を勧めたが、家族は反対した。この患者への人工的水分・栄養補給をどうするか。この患者は終末期にあるとみて終末期対応をするのが適切かどうか、どのようにしてそれを判断するのか、私は医療者のディスカッションを聞いていた。その中で、この看護師は言った。『終末期かどうかということよりも、この患者さんのために何が最善なのか、それを考えましょう』。
 患者にとって、今、何をするのが最善なのかを検討するためには、医学的判断と併せて、患者本人がどのような人なのかを知ることが非常に重要である。それなしには、このような場面で本人がどのような価値判断をするのか、どういう意向を示すのかを推察することは困難である。
 家族らとのコミュニケーションを通じ、本人にとって何が大切なのかを知ろうとする。そうして本人像に迫ることによって、患者本人にとっての最善を探り、それを実現しようと努力することは、予後予測によって終末期対応の是非を探ることとはまったく異なるアプローチである。
 終末期医療をめぐる議論では常にその定義が問題とされてきた。そして、慢性疾患においては定義化が困難なので、終末期医療の議論も論理的に進めることができないという指摘もあった。冒頭に述べたように、私も定義化に汲々としてきた。本末転倒ではなかったか。定義は重要だが、そもそも何のための定義なのか。当たり前のことをしっかり認識させていただいた。」(会田薫子:終末期医療を考えるということ. 2011年3月19日発行日本医事新報No.4534 1 2011)

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 記事公開から丸一日過ぎましたので、2013年4月23日付中日新聞・生活面の記事内容の一部(私が関連する部分)をご紹介致します。

シリーズ・終末期を考える
 認知症に「末期」の定義─尊厳死協会が提案
 「延命措置」議論の材料に
 「治療中止を」「親不孝だ」 家族や医師で認識すれ違う

 認知症となった高齢者の「末期」判断をめぐり、日本尊厳死協会(東京、会員約十二万五千人)は新たな定義を示した。重度の認知症で、生命に直結するほど重い身体症状を併発した場合を「末期」とし、延命措置の是非を検討する必要があると提案。現在、認知症患者の末期や延命措置中止などの基準はない。現場に判断が任され、医師や家族が苦悩する中、議論の材料となりそうだ。【山本真嗣】

 榊原白鳳病院(津市)の医師、笠間睦さん(五四)は昨年九月、脳血管障害型の重度認知症で入院する八十代女性の家族から、鼻の経管栄養を中止してほしいとの意向を聞いた。本人の事前の意思表示はないが、家族は「本人がかわいそう」という。だが、女性は医師の呼び掛けに右手を上げたり、季節を答えたりすることもできる。時折肺炎を起こすが、抗生物質で改善する。
 笠間さんは「末期ではないし、本人の意思も分からない」と断り、治療を続ける。笠間さんによると、米国では認知症や合併症の状態を数値化し、半年後の死亡率を算出する研究もされている。「日本でも客観的に全身状態を判断できる指標が必要」と話す。

P.S.
 記事においては文字数に制限があり紙面公開されませんでしたが、私は、客観的な指標として、ごく最近は「ADEPT」という指標を用いて予後予測を説明するように心掛けつつあります。
 全米ホスピス緩和ケア協会(National Hospice and Palliative Care Organization;NHPCO)によるアルツハイマー病(AD)末期の定義、MRI(mortality risk index)、ADEPT(advanced dementia prognostic tool)などの予後予測指標については、このシリーズの終盤にてご紹介する予定です。

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終末期①─厳密な規定は難しい
 「交通事故や脳出血などによって一瞬で命を奪われるケースを除き、多くの人が心身とも衰え、死が避けられそうもない『終末期』の状態を経験します。しかし、一言に終末期といっても、亡くなる日時まで正確に予知することはできません。その意味で、いっから終末期として厳密に規定するのかは難しいです。
 その中で、日本人の死因トップであるがんは病気の進行と亡くなる時期が比較的はっきりしています。患者の状態が急激に悪くなるのは通常、亡くなる約2週間前です。がんではこの時期が終末期といえます。実は終末期といぅ言葉は、がんの場合に使われ始めました。今でもがんが連想されます。
 終末期に対するもう一つの関心は、回復の見込みがない植物状態になった場合における延命医療のあり方でした。こちらは法律家などが関心を持っていました。終末期という名称が初めてついた国の検討会でも、これら2つの分野が課題でした。
 その後、脳卒中後遺症や認知症の末期などにおける医療にも対象が拡大しました。問題は、がん以外では先に述べたように終末期の開始時期が明確でなく、末期が何年にも及んでいると捉えることもできます。こうした状況で、生命の尊厳を守りながら、本人や家族の意向をどのように反映きせて医療を提供するかが課題となっています。(池上直己・慶応義塾大学医学部教授)」
【2014年7月27日付日本経済新聞・健康 知っ得ワード】


朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第121回『終末期への対応 終末期はいつから―法的な問題も』(2013年4月25日公開)
 しかしながら医療現場では、終末期であることが確定されない状況では、延命措置を中止・差し控えることにより法的責任を問われるのではないかと懸念する声が根強くあるという状況にあります。
 この点に関して弁護士法人龍馬ぐんま事務所の小此木清弁護士は、「終末期の判断が確定されない状況では、延命医療の中止・差し控えに関して支援できないのではないか。たとえば、高齢者が、脳梗塞等を発症し経口摂取が困難な状況になった場合、ただちに終末期として延命医療の問題とすることはできないはずである。ましてや、人工的水分・栄養補給法(artificial hydration and nutrition;AHN)導入の開始・不開始をめぐり、医師と本人・家族との意思の不合致が存する事例に遭遇したとき、終末期であることを棚上げし、医療の現場にガイドラインによる延命医療の中止・差し控えを委ねることはできないというべきである。」(小此木 清:高齢者の終末期医療をめぐる法的諸問題 高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン─人工的水分・栄養補給の導入を中心として. 老年精神医学雑誌 Vol.23 1218-1224 2012)と述べています。
 高齢者の終末期に関して筑波大学大学院人間総合科学研究科生涯発達科学飯島節教授は、「終末期医療について論ずるには、まず終末期についての共通理解が必要であるが、残念ながらその定義は確立されていない。とくに、高齢者は複数の疾病や障害を併せ持つことが多く、また心理・社会的影響も受けやすいために、死に至る過程は、一般成人の場合に比して多様かつ複雑であり、臨死期に至るまでは余命の予測が困難であることが多い。そこで、『立場表明2012』においては『終末期』を具体的な期間で規定することはせずに、『病状が不可逆的かつ進行性で、その時代に可能な限りの治療によっても病状の好転や進行の阻止が期待できなくなり、近い将来の死が不可避となった状態』としている。」(飯島 節:高齢者の終末期医療およびケア─日本老年医学会の立場から. 老年精神医学雑誌 Vol.23 1225-1231 2012)と述べております。この定義は、2001年6月13日に報告された立場表明での定義と概ね同様の内容となっており、「その時代に可能な最善の治療」が「その時代に可能な限りの治療」と若干の変更がなされております。
 さて、小此木清弁護士は前述の論文の最後を、「現時点においては、高齢者本人の自己決定権による事前指示が存する場合を除いて、ガイドラインの意思決定プロセスを経たとしても、AHN中止・差し控えにより死をもたらすことは、立法的解決がなされない限り許されないと考える。」という言葉で締め括っており、事前指示書の存在の重要性を改めて強調しております。


朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第122回『終末期への対応 「終末期にしないで」と「生かし続けないで」』(2013年4月26日公開)
 最近、延命措置を差し控えたり中止を希望する意向をお聞きする機会が増えてきたように感じております。新聞などで終末期医療に関する話題が取り上げられる機会が多くなり、啓蒙が徐々に進んでいるためではないでしょうか。
 例えばこんな事例がありました。患者さんは高齢女性(80歳代後半)であり、2012年3月に発症した脳梗塞により左半身麻痺となり寝たきりの状態です。また、脳梗塞による嚥下障害のため経鼻経管栄養を実施しております。しかし、言語機能は保たれており、「おはよう」としっかり返事してくれます。
 2012年8月に肺炎を併発し抗生物質による治療を施行した際の話し合いの中で、ご家族より経管栄養の継続を中止してほしいとの意向をお聞きしました。
 私の立場は小此木清弁護士と同様に、「高齢者が、脳梗塞等を発症し経口摂取が困難な状況になった場合、ただちに終末期として延命医療の問題とすることはできないはずである。」という考えに立っております。すなわち、脳梗塞による嚥下障害は、仮に病状が「不可逆的」な状態(病状固定)に陥っていたとしても、決して「進行性」ではありません。経管栄養を継続すれば、「進行の阻止」は可能な状況です。すなわち、終末期とは考えられないわけです。私はご家族に、「終末期ではないので経管栄養は中止できません」とその理由を説明致しました。この患者さんは今も榊原白鳳病院に入院中であり、毎朝私に「おはよう」と返事してくれます。
 ではもしこの事例の基礎疾患がアルツハイマー病であった場合はどうでしょうか。FAST分類7d(着座能力の喪失)で嚥下障害がありますので、海外学術誌の定義に照らし合わせれば、「終末期」と判断されます。
 そして事前指示書があれば、本人の意向に沿って治療が差し控えられることもあるかも知れません。事前指示書がなければ、代行判断(患者意思の推定)がされることになります。
 代行判断に際しては、「本人以外の家族などとの話し合いにおいては、家族が常に正当な代理人であるとは限らないので、家族自身の希望と患者の意向の代弁とを明確に区別する必要がある。」(飯島 節:高齢者の終末期医療およびケア─日本老年医学会の立場から. 老年精神医学雑誌 Vol.23 1225-1231 2012)ことに留意する必要があります。それは、「家族の意向を尊重するにしても、家族には経済的・精神的負担という思惑が入り込む危険性があるので、あくまでも高齢者本人の尊厳に十分配慮することが重要となる。」(小此木 清:高齢者の終末期医療をめぐる法的諸問題 高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン─人工的水分・栄養補給の導入を中心として. 老年精神医学雑誌 Vol.23 1218-1224 2012)からです。
 代行判断も困難であれば、代理人を含めた関係者において最善の利益判断が実施されることになります。その場合には、病棟スタッフだけの判断ではなく、終末期の医療やケアについて議論する倫理委員会またはそれに相当する委員会を設置することも求められるでしょう。
 なお、「法的には『家族の定義』も定まったものではない。したがって、ただ、家族だからといって、当然には代理判断ができるわけではない」(箕岡真子:認知症高齢者の終末期医療における倫理的課題. Geriatric Medicine Vol.50 1407-1410 2012)という点にも留意しておく必要があります。
 ですから、延命措置を差し控えたり中止を行う場合には、かなり多くの行程を求められております。日本老年医学会の「高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン─人工的水分・栄養補給の導入を中心として」が発表され、プロセスが明確にされたことで大きな一歩は踏み出されました。しかし、そのプロセスを遵守するあまり、阿吽の呼吸による「静かな最期」が困難になってしまったと感じている医師は多いのかも知れませんね。そして、私もその一人のような気がします。
 私の脳裏には、患者さんの「勝手に終末期にしないでくれ!」という声と、「勝手に生かし続けないでくれ!」という二つの心の声が響いており、今でも葛藤が続いております。

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 過日ご紹介しました2013年4月21日放送のNHKスペシャル「家で親を看取る」(http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20130421)において、「最善の利益判断」を話し合う場面が映し出されましたね。
 ご家族、在宅医の沖田将人医師を中心として、関係者11人が集まって話し合った場面です。
 こういった情景が映像として流されたのは、私の知り限りにおいては初めてのことだと思います。
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