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3月1日最高裁判決 狭義の徘徊なのかどうか? [アルツハイマー病]

 m3.com「認知症フォーラム」で新しいスレッドを立ち上げました。
 https://medqa.m3.com/doctor/showForumMessageDetail380009.do


 上田 論先生、徘徊に関するご意見をお聞かせ下さい。
 よろしくお願い致します。

 「認知症ならだれでも徘徊するわけではない。メディアも社会も、それを安易に結びつけて前提にしてしまっている。徘徊とは元来、場所や人がわからなくなる見当識障害が顕著な人が無目的に歩き回ることを指し、認知症のなかでも重度の人だけの症状である。ところが、いま問題となっている行方不明は、重度の人だけの問題ではないと思われる。行方不明者の数の多さから推察すると、家族のことも自分の家もわかり会話もできるような中等度レベルの人が、出かけた先で迷いうろうろとしてしまっている状態も、十把一絡げに『徘徊』としてしまっている様子が濃厚である。その人々には、出かける意志があり、なんらかの願望もあったはずであるが、それはまったく注目されたり議論されたりしない。そこには、徘徊と認知症を安直に結びつけてみる単純思考がある。背景にあるのは、『認知症の人は徘徊するもの』という決めつけと偏見である。
 認知症の人がどんな思いで『徘徊』するのか。その人は日々の生活をどのように送っているのか。どんな思いをもって暮らしているのか。生活に楽しみや張り合いはあるだろうか。どんな希望や願望があるのだろうか。それらに注目し、本人の心情と生活をみつめることが、まず大切なのである。それを欠いたまま介護者の視点、見守る人々の視点でのみなされる議論は大きな欠陥をはらんでいる。」【編/上田 論 著/上田 論:認知症をすすんで迎える社会に─否定的な視点を変える. こころの科学 HUMAN MIND SPECIAL ISSUE-認知症によりそう・「治す」から「あるがまま」へ [2015年7月15日発行] 日本評論社, 東京, 2015, pp2-5】

 上田 論先生、上記の「徘徊とは元来、場所や人がわからなくなる見当識障害が顕著な人が無目的に歩き回ることを指し、認知症のなかでも重度の人だけの症状である。」という部分に関してお尋ね致します。

 その前に、愛知県大府市で起きた「認知症電車事故」の経緯を簡単に振り返ってみたいと思います。
 事故は2007年12月7日夕に起きました。男性(当時91歳)はデイサービスから帰宅後、当時八十五歳の妻が数分間、うたた寝した間に外出。約一時間後、3キロほど離れた東海道線共和駅の構内で線路に立ち入り、列車にはねられて死亡しました。男性は要介護4で、「常に介護が必要」と判定されていました。
 裁判(一審・名古屋地裁)では、①男性が事故に遭うことを予見できたか②徘徊を防ぐ対策は十分だったかの二点が争われました。
 JR側は「過去に二度の徘徊歴があり、再び徘徊する可能性は予見できた」と主張。自宅の出入りを知らせるセンサーを切っていたほか、妻が目を離した落ち度があると指摘しました。
 これに対し、遺族側は「当時は認知症状が安定し、穏やかに生活していた。今まで徘徊で駅に向かったことはなく、事故は予測できなかった」と反論。「センサーを切っていたのは、大きな音で男性が精神的に不安定になるため。横浜市に住む長男の妻が介護のために単身で近所に転居するなど、家族ぐるみで対策をとっていた」と述べました。
 2013年8月の一審名古屋地裁判決は、徘徊歴や介護状況から「事故は予見できた」と判断しました。そして、「妻は男性から目を離した過失がある。長男は男性の介護方針を決めており、監督責任がある」とし、二人に請求の全額である計約七百二十万円の支払い賠償を命じました。
 二審・名古屋高裁は、「長男は二十年以上別居し、監督責任はない」とし、妻にのみ約三百六十万円の賠償を命じました。
 そして、来月3月1日に、認知症患者が起こした列車事故の責任を、介護する家族がどこまで負うのか、最高裁が初めての判断を示すとみられております。

 上田 論先生がご指摘されておりますように、徘徊の定義に関しては、狭義の徘徊と広義の徘徊がありますので、十把一絡げに議論しておりますと、議論が平行線を辿ってしまいます。
 そこで、徘徊の定義を「徘徊とは元来、場所や人がわからなくなる見当識障害が顕著な人が無目的に歩き回ることを指し、認知症のなかでも重度の人だけの症状である。」という狭義の定義に絞って議論してみたいと思います。
 この男性患者(当時91歳)が狭義の徘徊を呈していたとすれば、「予見できた」という主張も妥当であり、JRの指摘は認められることでしょう。
 しかし、遺族側が主張するように、「当時は認知症状が安定し、穏やかに生活していた。今まで徘徊で駅に向かったことはなく、事故は予測できなかった」のであれば、介護する家族の責任は問えず、実情を踏まえた判断が最高裁に求められます。そして、鉄道会社が加入する損害保険でカバーできるようにするなど、社会的に救済する制度の確立が求められます。

 さて、そうなりますとこの男性患者さんが、「狭義の徘徊」に該当したのかどうかという部分が今回の判決の大きな焦点の一つになるような気がします。
 そこで私からの質問です。
1)「狭義の徘徊」に該当するかどうかをどのように客観的に証明するのか? 重症度だけで判断して良いのか?
2)今後同様の事故が起きた場合、軽度認知症の人の徘徊は「広義」の徘徊に該当する可能性が高いため、「予見」できないため「家族の責任は問えない」という判例(前例)となり得るのかどうか?という部分が注目されるのではないでしょうか。

 上田 論先生は、この1)&2)についてどのようなお考えをお持ちでしょうか。ご示唆頂けましたら幸いです。
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