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ここに存在しているだけで、価値がある [終末期医療]

ここに存在しているだけで、価値がある

青年:
 わたしの祖父についてお話ししましょう。祖父は現在、施設に入って寝たきりの生活を送っています。認知症のおかげで子や孫の顔もわからないし、とても介護なしでは生きていけない状態です。どう考えたところで、誰かの役に立っているとは思えません。わかりますか先生! あなたの議論は、私の祖父に「お前のような人間には生きる資格がない」といっているのと同じなのです!
哲人:
 明確に否定します。
青年:
 どう否定するのです?
 …(中略)…
哲人:
 あなたはいま、他者のことを「行為」のレベルで見ています。つまり、その人が「なにをしたか」という次元です。たしかにその観点から考えると、寝たきりのご老人は周囲に世話をかけるだけで、なんの役にも立っていないように映るかもしれません。
 そこで、他者のことを「行為」のレベルではなく、「存在」のレベルで見ていきましょう。他者が「なにをしたか」で判断せず、そこに存在していること、それ自体を喜び、感謝の言葉をかけていくのです。
 …(中略)…
哲人:
 誰にでも自分が生産者の側でいられなくなるときがやってきます。たとえば年をとって、定年退職して、年金や子どもたちの援助によって生きざるをえなくなる。あるいは若かったとしても、怪我や病気によって、働くことができなくなる。このとき、「行為のレベル」でしか自分を受け入れられない人たちは深刻なダメージを受けることになるでしょう。
青年:
 仕事がすべて、というライフスタイルの人たちですね?
哲人:
 そう。人生の調和を欠いた人たちです。
青年:
 ……そう考えると、先生が前回おっしゃった「存在のレベル」の意味が、腑に落ちる気がしますね。たしかにわたしは、自分が働けなくなって「行為のレベル」でなにもできなくなる日のことなど、真面目に考えてきませんでした。
 【岸見一郎、古賀史健:嫌われる勇気─自己啓発の源流「アドラー」の教え. ダイヤモンド社, 東京, 2013, pp208-209,249-250】

私の感想
 私が受け持っている患者さんの中に、アルツハイマー病を患い肺炎を併発し寝た切りとなって経管栄養(経腸栄養)を導入し、既に6年以上の年月が経過している方がおられます。
 ごく最近、その方のご家族にお話を伺う機会がありました。いわゆる「アルツハイマー病の終末期」といえる遷延性意識障害の状況にあります。しかし、ご家族は、「もし肺炎などを再発した際に、何もしないという選択に関してはまだ決めかねています」とお話されました。しかもご家族は、「存在のレベル」のみならず、「音楽をかけると反応が良いように感じているんです」と「行為のレベル」での存在感にまで言及し思いを語ってくれました
 ご家族から大切なことをひとつ教えて頂きましたね。そしてそのことを『嫌われる勇気─自己啓発の源流「アドラー」の教え』を読み再認することができました。

関連記事(2013年4月23日付中日新聞より)
 http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20130424145828793
 =榊原白鳳病院(津市)の医師、笠間睦さん(54)は昨年9月、脳血管障害型の重度認知症で入院する80代女性の家族から、鼻の経管栄養を中止してほしいとの意向を聞いた。本人の事前の意思表示はないが、家族は「本人がかわいそう」という。だが、女性は医師の呼び掛けに右手を上げたり、季節を答えたりすることもできる。時折肺炎を起こすが、抗生物質で改善する。
 笠間さんは「末期ではないし、本人の意思も分からない」と断り、治療を続ける。笠間さんによると、米国では認知症や合併症の状態を数値化し、半年後の死亡率を算出する研究もされている。「日本でも客観的に全身状態を判断できる指標が必要」と話す。
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