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「死にたい」の理解と対応 [自殺防止]

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総論:「死にたい」の理解と対応
はじめに─「死にたい」は自殺の危険因子
 最初に断言しておきたい。「『死ぬ、死ぬ』と言う奴に限って死なない」という通説は迷信以外の何ものでもない。ケスラーらの大規模疫学調査は、自殺念慮を抱いた者の三四%は具体的な自殺の計画を立てており、自殺の計画を立てた者の七二%は実際に自殺企図におよんでいたことを明らかにしている。つまり、自殺念慮を抱いたことのある者の二五%が実際に自殺企図におよんだ経験かあったわけである。そしていうまでもなく、この二五%という割合は一般人口における自殺企図の経験率とは比較にならないほど高い数字だ。この事実だけでも、「死にたい」という発言や考えが、将来における自殺リスクと密接に関連していることがわかるであろう。
 …(中略)…

どうすれば「死にたい」に気づけるか
 …(中略)…
 実際、筆者自身にも思い当たる経験がある。もう一〇年以上昔の話、自殺したある男性患者を最後に診察したときのことだ。そのとき、筆者はうまく言語化できないものの、ある種の違和感のような感触を覚えたのだった。というのも、この数年、渋面しか見せなかった患者か、その日に限って不思議と何か悟ったような、吹っ切れた表情をしていたからだ。突然の変化に、筆者ほ少しだけ胸騒ぎを覚えた。脳裏に「自殺?」という考えが一瞬だけよぎったのも、はっきりと記憶している。しかし筆者は、「まさか」とすぐさまその考えを打ち消し、「次回も気になったら質問しよう」とみずからにいいきかせて診察を終えた。なにしろ、その日は自殺に関する話題を持ち出すのは唐突な気がしたし、「今日くらい、彼を笑顔のまま帰したい」と思った──いや、そうではない。正直にいえば、自分が重苦しい話を避けたかったのだ。
 彼がみずから命を絶ったのほ、それからわずか二日後のことだった。今でも私は、「あのとき質問していれば……」と後悔の念に苛まれることがある。もちろん、たとえ彼の自殺念慮に気づいたところで、その背景にある現実的な困難を解決することはできなかったかもしれないが、少なくとも次の診察日には生きた彼を来院させることができた気がする。単なる時間稼ぎ、一時的な延命に過ぎなかったかもしれない。しかしそれでも、ほんのささいな障壁が人の運命を一八〇度変えることだってある。
 たとえば、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジから飛び降りようとしているところを警察官によって強制的に退去させられた人たちの追跡調査の結果は、そのよい例かもしれない。その調査によれば、強制的に退去させられた者は、巨大橋梁からの飛び降りというきわめて致死性の高い手段による自殺を決行寸前までいったにもかかわらず、その約九割は七年後にも生存していたというのだ。ちなみに、彼らは決して精神科病院に連れて行かれたわけではない。ただ、パトカーで自宅に送り届けられただけだった。
 繰り返しになるが、自殺念慮に気づくには質問するしかない。援助者のなかには、自殺念慮に関する質問をすることで、「かえって患者の『背中を押す』ことになるのではないか」「もっと精神状態を不安定にするのではないか」と恐れる者もいる。しかし、聞いたからといって患者が自殺しやすくなることを明らかにした研究はいまのところ一つもなく、専門家は口をそろえて「質問しなければならない」と強調している。それどころか、その質問が意思疎通の通路を開く契機となる場合もある。チャイルズとストローザルは、「(自殺について質問されることで)むしろ患者は安心することが多い。質問されることによって、これまで必死に秘密にしてきたことや個人的な恥や屈辱の体験に終止符が打たれる」と指摘している。

 以下省略
 【松本俊彦:総論:「死にたい」の理解と対応. こころの科学 通巻186号 10-16 2016】
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