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想いを汲むことから聴くことへ [認知症]

レビー小体型認知症. CLINICIAN Vol.63 no.648 2016年4月号─私の座右銘第432回『前へ』
 私が非常勤で診療しているクリニックで「暮らしの教室」という当事者の会が開催されている。認知症を持つ人や家族の間で生活上の不便や困りごとを共有し、どのような工夫ができるか考えている。それまで私が知らなかった当事者の多くの苦労をそこで知った。例えばレビー小体型認知症で、複数の人の姿が部屋に現れるという幻視はじつに薄気味悪いが、床が歪んで見えるという錯視は大したことではないと思っていた。しかし駅のホームで階段が歪んで見えるとき、昇りか降りかも分からなくなると知った。混雑するホームでどちらに行ったらよいか分からなくなるのは恐ろしい事態だ。毎回、多くのことを認知症の人から教えてもらっている。
 その会の最後に進行役の水谷佳子さん(日本認知症ワーキンググループ事務局)に「繁田先生、ひとことお願いします」と指名されてマイクを持つようになった。初めて話をしたとき「たいへんなことばかりだと思いますが、みなさんと一緒に力を合わせれば、きっと前に進んでいけるはず」と話を結んだら、それに続けて水谷さんが「みんなで〝前へ〟と声にしてみませんか」と参加者に呼びかけた。それ以来、「前へ」とみなで声に出すようになった。
 私はラグビーのルールを知らないが、子供の頃、正月によく父の傍らで大学ラグビーを観させられた。ボールを持ってゴールに駆け込んだり、スクラムでボールをゴールに押し込むと得点になるが、ボールを前に投げられないという制約が気に入って観ていたことを思いだした。と同時に、すでに亡くなった父がよく「前へ」とつぶやいていたことも思いだした。それは、重戦車といわれた明治大学ラグビー部を60年以上も指導した北島忠治監督が、いつも口にしていた言葉であることを後年になって知った。
 ラグビーではボールを前の選手にパスすることができず、抱えて走ることでしか前に進めない。しかし相手チームが待ち構えているので、ついつい選手は外側へ走ってしまう。世界一といわれるニュージーランドチームの試合を観ていたら、ボールを持った選手が人の集まる中央部分に向かって走りこんでいて驚いた。外に逃げてもサイドライン以上には逃げられずタックルされてしまうからか。一見して一番難しく見える真ん中に向かって駆け込み、しばしばトライを決めた。
 認知症の人も家族も、周囲の偏見だけでなく、自分自身の病気に対する偏見とも闘わなければならない。困難な道であり、私たち専門職も十分な支援ができていないが、認知症を理由にいろいろなことをあきらめてほしくないといつも願っている。認知症があっても遠慮したり引き込もったりせず、ふつうに暮らすことができる社会であってほしい。そのために専門職としての役割を果たしたいと思う。認知症の人も家族も、自分らしく生きることをあきらめてほしくない、そんな私の思いが「前へ」という言葉に重なっている。
 私の座右銘は、認知症を持つ人やご家族とのこの合言葉とした。(繁田雅弘 首都大学東京大学院人間健康科学研究科・教授)
 【レビー小体型認知症. CLINICIAN Vol.63 no.648 2016年4月号 pp0-2】


なぜ聴かなかったのか
 なぜ最近まで認知症の人の話を聴かなかったのだろう。なぜ問いかけてみることをしなかったのだろう。「どのような毎日ですか」「気分はいかがですか」「どのようにつらいですか」「何かしたいことはありませんか」「知りたいことは何ですか」尋ねてみることさえしなかった。言いたいことがある人も大勢いたはずだ。なぜ気が回らなかったのか。認知症になると考えることができなくなる、そうした先入観や偏見にまみれていたためか。「変わりないですか」と形式的に声をかけることくらいはしたが、声をかけられたくらいで話し始められるわけがない。それは認知症に関わってきた人間なら一番よく知っているはずだ。家族の前で気を遣って言えないこともあっただろう。それが分からなかった。今となってみればそのような自分が不思議でならない。やはり偏見は恐ろしい。

認知症の人の〝あきらめ〟の言葉から
 

認知症への理解の深まりの中で
 

想いを聴くこととは・・・
 ここ1~2年、認知症の人からいかに本人の想いを聴くかが筆者の課題になった。本人に気兼ねしない形で家族の本音を聴くことにも注力するようになった。本人の想いをどこまで聴けるかまだまだ分からないが、まずは耳を傾けるところから始めている。共感も容易なことではない。認知症を持つ人は、隠したり嘘をついたりすることは少ないように思うが、想いを適切な言葉にすることはできない。とりわけ高度に進行すると発言の意図も暖昧で不確かになる。聴くことができた言葉を、訂正することなく、複数の意味の可能性を考えながら聴き続け、治療に活かしていくことが筆者の今の課題である。
 (首都大学東京大学院人間健康科学研究科・教授)
 【繁田雅弘:想いを汲むことから聴くことへ. CLINICIAN Vol.63 no.648 2016年4月号 pp3-6】


私の感想:
 アルツハイマー病研究会 第17回学術シンポジウム(in グランドプリンスホテル新高輪)の会場で繁田先生にご挨拶しました際に、「告知」のことで少しお話しました。
 繁田教授からは、「これから少しずつ聴いてみようと思います。」と前向きなご意見をお伺いすることができました。
 認知症に対する「告知問題」は、まだ始まったばかりですね。
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