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納得できる「逝き方」とは [終末期医療]

医療介護(記者メモ)─現場から
 納得できる「逝き方」とは

 超高齢社会を迎え、関心が高まっている「死」について考える連載を担当している。その中で、90歳の母親を自宅で看取った女性を半年間、取材した。印象深かったのは、母親の容体急変時に、女性が救急車を呼ばない決断をしたこと だ。母親が自宅で自然な死を迎えられたのは、この時の決断がポイントだったと、後で知った。
 私も昨秋、同居する祖母を亡くした。87歳と高齢で心臓が弱っていた。夜、突然自宅で倒れ、家族はあわてて救急車を呼んだ。
 「救命措置をしますね」と確認され、よく分からないまま「はい」とうなずいた。注射を何本も打ち、気管挿管もしたが、運ばれた病院で亡くなった。「かえって苦しい思いをさせたのでは」「助からないなら自宅で静かに見送った方がよかったのでは」。家族には今も悔いが残る。
 取材では、同様の状況で命を取りとめたものの、何本もの管につながれ、自宅に戻れず、病院や施設を転々とする人もいた。
 何が違ったのだろう。
 女性は「母の希望を聞いて、日頃から話し合っていたから」とほほ笑んだ。なじみの訪問看護師が駆けつけ、病院へ行っても回復の見込みがない状態と説明したことも決断の助けになったという。
 一方、我が家では祖母の思いを聞いたことがなかった。かかりつけの医師に、万一の時の対応を尋ねたこともなく、夜間の連絡先も知らなかった。
 厚生労働省が2013年に行った調査でも、死が近い場合に受けたい医療などについて、6割近くの人が「家族と全く話し合ったことがない」と答えている
 望んだ場所で、苦痛が少なく、家族との時間があることなどが「質の高い死」だという。本人や残される人に悔いのない「逝き方」とは、そのために何をしたらよいのか。取材を通し考えていきたい。(大広悠子)
 【2016年4月24日付讀賣新聞・くらし】

私の感想
> 注射を何本も打ち、気管挿管もしたが、運ばれた病院で亡くなった。「かえって苦しい思いをさせたのでは」「助からないなら自宅で静かに見送った方がよかったのでは」。家族には今も悔いが残る。

 もし救命措置を行わなかったら、後日、「あの時、救命措置をやっていたら助かったかも知れない」と考えてしまい、もっともっと後悔の念は強くなるものです。本人意向が不明瞭であった以上、救命措置を試みたのは正しい選択だと私は思います。
 ただその結果、寝たきりで何年も・・ということはしばしばあります。でもそれは結果論なんです。
 家族が、救命措置をしなくとも後悔しないためには、本人の事前の意向を知ることが大切になります。

> 我が家では祖母の思いを聞いたことがなかった。かかりつけの医師に、万一の時の対応を尋ねたこともなく、夜間の連絡先も知らなかった。

 在宅医療で本人の調子が悪いのに、主治医の連絡先を知らないなんて考えられないです。

> 厚生労働省が2013年に行った調査でも、死が近い場合に受けたい医療などについて、6割近くの人が「家族と全く話し合ったことがない」と答えている。

 4割も少しでも話し合ったことがあるという数字の方が意外です。
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