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右脳と左脳、そして脳梁 [脳科学]

朝日新聞アピタル「ひょっとして認知症-PartⅡ」第545~559回『右脳と左脳、そして脳梁』(2014年7月10日~24日公開)
 「右脳」と「左脳」で持っている機能が少々違うことはいろいろ見聞きする機会が多いと思います。しかし、「脳梁(のうりょう)」という医学用語は、初めて耳にされる方が多いのではないでしょうか。
 簡単に説明しますと、脳梁とは左右の大脳を連結し、右脳と左脳の交信の役割をしているものです。まずはウィキペディアにおいて、脳梁のイメージ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B3%E6%A2%81)を頭の中に描いてくださいね。

 さて脳梁は、脳における男女の性差が特に顕著な部位です。女性の脳梁は男性よりも太いことが多いのです(メモ1参照)。そのため右脳と左脳の連絡が良く脳全体をバランスよく使えるため、女性は2つのことを同時に行いやすい(例えば料理を作りながらテレビドラマを観る)と考えられています。一方で、右脳と左脳の情報が入り乱れ処理しきれなくなって「ヒステリー」を起こしやすいという意見もあります。
 男性では、情報が入り乱れにくいので、1つのことに集中して仕事する場合には好都合ではないかと言われています。

メモ1:“脳梁”サイズの性差
 本文内では、「女性の脳梁は男性よりも太いことが多い」と記載しましたが、絶対的な断面積は有意に男性の方が大きいです。これに関しては詳しい解説がありますので以下にご紹介します。
順天堂大学医学部生理学第一講座の北澤茂客員教授
 「男性は脳のサイズも大きいので、脳のサイズに比較して大きいか小さいかを比べる必要があり、脳梁の断面積を脳重量の2/3乗で割ると、女性の方が平均5%脳梁が大きく、対応して左右の半球の通信時間は女性の方が5%程度短いものと推定される。」(北澤 茂:脳神経科学と性差. 遺伝 Vol.65 53-58 2011)

 一方では、「女性は2つのことを同時に行いやすい」という説に反論する意見もあります。その記述をご紹介する前に、「ひょっとして認知症? Part1」の第253回においてご紹介しましたビデオをもう一度ご覧頂きましょう。
 ビデオでは白いシャツと黒いシャツを着た二つのチームがバスケットの試合をします。皆さんは、白いシャツを着ている選手がパスをする回数を数えて、黒いシャツを着た選手のパス回数は無視して下さいね。空中で受けるパスもバウンドパスも両方数えて下さいね!
 それではビデオ(http://www.theinvisiblegorilla.com/videos.html)をご覧下さい。ウェブサイトの一番上の動画を選択して視聴して下さい。白いシャツの選手が何回パスをしたか分かりましたか?
 答えは「ひょっとして認知症? Part1─第253回」に記載してある通りです。
 それでは、「女性は2つのことを同時に行いやすい」という説に反論する意見を以下にご紹介しましょう。著書『錯覚の科学』の「ゴリラに気づく人、気づかない人」(クリストファー・チャブリス、ダニエル・シモンズ著:錯覚の科学. 木村博江訳, 文藝春秋, 東京, 2011, pp47-51)に記載されている意見です。
 「マルチタスクに関する実験では、女性の方がマルチタスクが得意で、男性よりゴリラを見落とす割合が低いという結果はえられなかった。実際の話、マルチタスクに関する実験では、性別に関係なく、誰もうまくできないというのが結論である。原則として、マルチタスクよりも一度に一つずつ仕事するほうが、はるかに効率がいいのだ。」

 よく、右脳は芸術・創造性・音楽に深く関与しているという話を聞くと思います。しかし、近年の考えでは、「右半球は創造的で芸術的半球であるとする考え方は、左半球と右半球の機能分化を研究するにあたっての仮説として提唱されただけの古い理論に過ぎず、その後の研究は、この初期の仮説を支持していない」(ダーリア・W・ザイデル:芸術的才能と脳の不思議-神経心理学からの考察 河内十郎監訳, 河内薫訳, 医学書院, 2010, 前書きxiより)ことに留意する必要があります。
 高田明和先生の著書には、「脳梁を切断された患者さんでの検討から、右脳は、簡単な言語、立体構造、およその構図の理解、言語を使わなくてもよい概念(喜びの顔の理解など)に優れており、左脳は言葉や計算、細かな構図の理解に優れていました。」(高田明和:脳トレ神話にだまされるな 角川書店, 東京, 2009, pp90-98)という記述があります。
 さて、左脳の損傷で失語症になる確率は、女性の方が男性よりも低いことが報告されています。
 いったいこれはどういうことでしょうか。
 東北大学大学院文学研究科の小泉政利准教授は、物語聴取時の脳活動の男女の違いに関する以下のようなデータを紹介しています(村上郁也:イラストレクチャー 認知神経科学 ─心理学と脳科学が解くこころの仕組み─ オーム社, 東京, 2011, p103)。
 「健聴者が物語を聴取しているときの脳活動を同じ物語を逆向きに再生したものを聞いているときの脳活動と比較した研究では、男性は左脳だけに有意な活動が見られたのに対して女性は左右両側に活動が見られた。このことから、男性は主に左脳に依存して言語処理を行っているのに対して、女性は両側を活用していることがわかる。」
 さて、「単語の意味判断課題」では、男性でも女性でも左脳だけが活動します。一方「朗読」においては、男性は左、女性は両側の側頭葉を使って聞くことが分かってきました。これに関して順天堂大学医学部生理学第一講座の北澤茂客員教授は、「右側の側頭葉は声の抑揚の解析や連想などの非統語的な言語関連機能に関与しているとは古くから指摘されているところである。相手が口にする字面だけでなく、話をするときの声の調子に気を配るのに役立つのが右の側頭葉である。実際、女性は男性に比べて、話の内容と声の調子の不一致に敏感であるという報告もある。」(北澤 茂:脳神経科学と性差. 遺伝 Vol.65 53-58 2011)と述べています。

 右脳と左脳の違いをもう少し勉強しましょう。
 言語野(言語中枢)は、左大脳半球にあることが多いのですが、右利きの人で数%、左利きの人で30~50%程度が右大脳半球に言語中枢があることが知られています。そのせいもあって、左手利きあるいは両手利きの方の失語症は多彩であり、また比較的予後が良好です。左半球に言語中枢がある場合は左半球を優位半球と言い、右半球を劣位半球と呼びます。
 ヒトの右脳と左脳の機能的な相違点に関しては、言語は左脳優位、空間認知は右脳優位です。左半側空間無視(メモ2参照)という症状があり、これは右半球損傷によって出現します。
 また言語機能ほど明確ではないものの、右手利き者においては「失行」は左半球損傷によって出現することが多いことが知られています。
 側頭葉は「記憶の貯蔵庫」と考えられていますが、貯蔵している記憶は左右で違いがあります。右利きの人の場合、左側頭葉が障害(萎縮)されると、言葉の意味が失われていきます。

メモ2:左半側空間無視
 非常に特異な症状を呈します。食事の際に左側にあるおかずに手をつけない、新聞記事の左側を読み落とす、左側の障害物に気づかずぶつかってしまうなどの症状がみられます。

 かつて私が担当しておりました入院患者さんで「全失語」の方がおられました。少々印象的な経緯がありましたのでご紹介しましょう。
 ウェブサイトにおいて、「全失語」をキーワードとして検索してみましょう。
 「全失語:左脳の広範囲な損傷によって起こります。すべての言語機能に障害があるため、話す・聞く・読む・書く・計算する等の能力はほとんどありません。」(http://しつごしょう.seesaa.net/article/62436733.html)と記載されておりますね。この記述そのものは決して間違いではありません。
 私が担当しておりました患者さんは、右利きで右大脳半球の広範囲脳梗塞により全くコミュニケーションが取れない状態であり、経鼻カテーテルによる経腸栄養を施行しておりました。私は、当初はこの患者さんの病態について、脳梗塞が広範囲であったために、脳幹網様体(http://kotobank.jp/word/%E8%84%B3%E5%B9%B9%E7%B6%B2%E6%A7%98%E4%BD%93)や視床などにも影響が及んでおり意識障害が遷延しているものと考えておりました。
 ある時、この患者さんのご家族より、「食べることにこだわりの強かった人なので、経口摂取訓練を試みて欲しい」との希望がありました。遷延性意識障害の状態での嚥下訓練は誤嚥のリスクが高く「危険だなぁ」と感じながらも、ご家族の熱意に押されて言語聴覚士(Speech-Language-Hearing Therapist;ST)による嚥下訓練を開始してみました。しばらくすると、STより「それなりに嚥下が可能です」と連絡が入りましたので、ご家族に嚥下造影検査(http://www.jsdr.or.jp/wp-content/uploads/file/doc/VF8-1-p71-86.pdf)について説明をするために集まって頂きました。嚥下造影検査(videofluoroscopic examination of swallowing;VF)の結果次第では、嚥下訓練を積極的に進めるため、経鼻カテーテルから胃ろうへの変更も検討されることになります。それは、経鼻カテーテルが挿入されておりますと、嚥下に際して不利益となる(http://www.peg.or.jp/eiyou/doctor/yoshikawa.html)ことも指摘されているからです。
 さてそのVFに関しての説明をするため、そして家族の胃ろう造設に対する意向を再確認するため、多くのご家族に一堂に会して頂きました。その席上において私が「左利きだったということはありませんか?」という質問をしましたら、遠方に在住されているため平素は来られていなかったご家族の方より、「実は、幼少時に左利きを右利きに矯正したと聞いております。」という非常に貴重な情報を入手することができました。
 すなわち、この患者さんは「遷延性意識障害」ではなく、右大脳半球に言語中枢があるため、右大脳の広範囲脳梗塞によって「全失語」となっていたのでした。この例のように、「言語を用いたコミュニケーション能力によって意識レベルを評価することが多いため、意識は回復していても“無反応、意識なし”と評価されてしまいかねない」(http://shirayukihime-project.net/hiroji-yanamoto.html)危険性は常々念頭におく必要があります。
 VF検査の結果は、嚥下機能はかなり低下しているため経腸栄養を続ける必要はあるものの、ごくごく少量の「お楽しみ」程度の経口摂取なら可能かも知れないと期待を抱かせる結果でありました。
 なお余談にはなりますが、言語を用いたコミュニケーションが不可能であるために「遷延性意識障害」と評価されてしまいかねない病態としては、失語症の他にも「閉じ込め症候群(locked-in syndrome)」がありましたね。閉じ込め症候群については、「ひょっとして認知症? Part1─ひょっとして閉じ込め症候群?(第104~106回)」において詳しくお話しております。

 さて、方向音痴と男女差もよく取り上げられますね。千葉県立保健医療大学健康科学部リハビリテーション学科の高橋伸佳教授は、男性で空間認知能力が優れていることに関して、「男性は女性と違い、原始時代から狩猟を行ってきたため、広い空間内で動物を追いかけたりしているうちにこの能力が発達した」(高橋伸佳:街を歩く神経心理学 医学書院, 東京, 2009, pp18-21)と指摘しております。
 また、清山会医療福祉グループ(http://www.izuminomori.jp/)代表の山崎英樹医師が著書の中で興味深い記述をしておりますのでご紹介しましょう(山崎英樹:認知症ケアの知好楽 雲母書房, 東京, 2011, p43-44)。
 「左脳の発達は胎生期に男性ホルモンであるアンドロゲンによって抑制されるため、男性は女性ほど左脳が発達せず、これをおぎなってむしろ右脳が発達するとされます。女性は左右をつなぐ脳梁が男性より太く、このため左右の脳の情報伝達は男性より女性の方がスムーズで、脳の仕組みからも女の勘はあなどれず、また女性はおしゃべりであり、左脳を損傷したときの失語の発生率も女性は男性の3分の1程度です。『男は右脳、女は左脳』というわけですが、左脳は言語機能、右脳は空間認知ですから、ベストセラーにもなったアラン・ピーズ&バーバラ・ピーズ『話を聞かない男、地図が読めない女』(主婦の友社)は、実にうまい題名です。これに倣って『形にひかれる男、ことばにひかれる女』とか、『夢みる男、計算する女』とか、(無頓着な左脳と自己点検の右脳ということでいけば)『女の楽観、男の悲観』とか、『おしゃべり女、じくじく男』とか、身につまされるコピーがいくらも出てきます。なお日本人は虫の音や雨の音も左脳でとらえて、言葉のようにさまざまな意味(涼、清、哀、愁など)を連想しますが、西欧人は右脳でとらえるので環境音、雑音としてしか感じることができないといわれます。」

 方向音痴に関連して、この機会に地理的障害についてきちんと勉強しましょう。先ずはその前に、地理的障害に関連する用語の整理をしておきましょうね。高橋伸佳教授は、「地理的障害」と「地誌的記憶障害」の違いに関して次のように言及しております(一部改変)。
 「『熟知している場所で道に迷う症状』を地理的障害と呼ぶ。ただし、意識障害、認知症、健忘症候群、半側空間無視など、他の神経症状や神経心理症状によって説明可能な場合は除外する。地誌的障害、地誌的失見当、地誌的見当識障害、広義の地誌的失認なども地理的障害とほぼ同義である。従来の文献にしばしば登場する『地誌的記憶障害』は、自宅付近の地図や自宅の間取りを想起して口述・描写することの障害(地理的知識の視覚表象能力の障害)であり、地理的障害とは異なる。」(高橋伸佳:街並失認と道順障害. BRAIN and NERVE Vol.63 830-838 2011)
 なお地理的障害(地誌的見当識障害)は、症候・病巣の違いから、街並失認と道順障害の2つに分類されています。
 街並失認とは、熟知した街並(建物・風景)の同定障害で、視覚性失認の一型です。したがって、周囲の風景が道をたどるうえでの目印にならないために道に迷ってしまいます。街並失認の病巣は側頭後頭葉内側部で右側病変の場合がほとんどです。原因としては後大脳動脈領域の脳梗塞が多いです。
 高橋伸佳教授は、「街並失認の病巣は、海馬傍回後部、舌状回前半部とこれらに隣接する紡錘状回にある。新規の場所のみ街並失認を認める症例の病巣は、海馬傍回後部とそれに隣接する紡錘状回に限局している」と報告しています(高橋伸佳:街並失認と道順障害. BRAIN and NERVE Vol.63 830-838 2011)。
 病院、施設に入院・入所した認知症の方でなかなか自分の部屋を覚えられない方をちょくちょく見かけますね。部屋の入り口に大きな字で名前を書いた紙を貼って分かりやすく表示したりしても功を奏しないケースが多いです。また、入院中の認知症患者さんが病室の自分のベッド位置を覚えられず、間違って他人のベッドに寝てしまうというケースも多いと思います。さてこのような時にはどうすればよいのでしょうか。精神科医の小澤勲さん(故人)と認知症ケアアドバイザーの五島シズさんが対処方法についてアドバイスしておりますので以下にご紹介しましょう。
 「施設に入所してきて、自室がなかなか覚えられない人がいる。名前を大きく書いて貼り付けても、その情報を目に留めることができず、自室を示す指標であると把握することもできない。立体の方がまだしも標識になる。バラの造花を大量に自室の入口に飾り、『あなたの部屋はバラの部屋だよ』と繰り返し教えると、かなりうまくいく。」(小澤 勲:認知症とは何か 岩波新書出版, 東京, 2005, p37)
 認知症ケアアドバイザーの五島シズさん(全国高齢者ケア協会監事、認知症介護研究・研修東京センター客員上級研究員)は、本人にとって「馴染みのもの」をベッドに置いておくと間違いが起こらなくなる場合があると述べております。
 「Mさんは入院の際、大きなショルダーバッグを肩にかけて来ました。『母はこのバッグを持っていると、とても安心していられます』と付き添ってきた娘さんが言いました。バッグの中には、ドリルや手帳、ハンカチーフ等が入っていました。
 Mさんは重度の認知症でコミュニケーションが全くとれませんが、穏やかな方で、入院した日は何ごともなく過ぎました。ところが翌日の朝、Mさんの隣の部屋の、Mさんと同じ位置のベッドのLさんが『人のもの持って行かないでよ、何回言えばわかるのよ、やめて!』と叫んでいます。Lさんは心身症の方でしたが、腰痛がひどく寝たきりの状態でした。『この人は変な人なのよ、私が目を覚ましたら孫が持ってきたクッキーと折り紙と、時計まで盗んでバッグに入れちゃったのよ。泥棒よ、この人。すぐ退院させてください』。Lさんはベッドサイドに立っているMさんを恐ろしい人を見るような目で見ていました。
 そこで娘さんに、『バッグ以外でお母さんが大切にしていたものがあったら持ってきてほしい』と伝えました。今度は、Mさんが若いころつくったという、小犬のアップリケのあるクッションでした。Mさんは娘さんの手からクッションをもぎ取るようにして頬ずりし、『可愛い子』と言いました。入院以来初めての発語でした。
 Mさんは一日じゅう小犬のクッションを抱えていましたが、1週間程たって新しい環境に慣れてくると、クッションを持ち歩かなくなりました。介護者たちも、どこかでクッションを見かけたら、Mさんのベッドに戻しておくようにしました。その後、Mさんはベッドを間違うこともなく、他人とのトラブルも起きませんでした。」(五島シズ:“なぜ”から始まる認知症ケア 中央法規, 東京, 2007, pp110-111)

 道順障害は、視空間失認の一型であり、熟知しているはずの地域内で自分のいる空間的位置や目的地への方角が分からなくなり道に迷うことになります。入院中であれば、「自分の病室と売店との位置関係が何度行っても分からない」という訴えになります。道順障害の病巣は、脳梁膨大後域から頭頂葉内側部(楔前部など)にかけての領域です。やはり右側病変例の頻度が高いです。
 高橋伸佳教授は、「病変側は右側が多いが、街並失認に比べると左側病変例の割合が高い。左側の同部位は、エピソード記憶の障害を中心とするいわゆる健忘症候群の病巣として知られている。これらの中に、記憶障害の程度に比し『道に迷う』症状が目立つ例があり、地理的障害の合併と考えられる。片側病変では症状の持続は短く、数カ月以内に改善する例が多い。病因の多くは同部の脳出血(皮質下出血)である。」と述べています(高橋伸佳:街並失認と道順障害. BRAIN and NERVE Vol.63 830-838 2011)。なお、道順障害で発症しそれが徐々に悪化していった「緩徐進行性道順障害」と考えられるケースにおいて、その後、記憶障害・認知機能障害が加わり最終的には「アルツハイマー病」と診断された事例も報告されております(高橋伸佳:街を歩く神経心理学 医学書院, 東京, 2009, p94)。急性発症ではない道順障害の場合には、アルツハイマー病も念頭において経過観察することが肝要というわけですね。
 高橋伸佳教授は、「『道に迷う』のにはさまざまな原因がある。健忘症候群による記憶障害があれば、旧知の場所は思い出せず、新規の場所は記銘できないために道に迷う。左半側空間無視の患者は、街を歩いていて左側にある通路に気づかず直進してしまうため目的地にたどり着けなくなる。こうした他の神経症状で説明可能な場合は地理的障害には含まない。」と端的に述べております(「街並失認」と「道順障害」の違い. Modern Physician Vol.30 104-105 2010)。
 すなわち、ある程度進行したアルツハイマー病での徘徊など、認知症の一症状として「道に迷う」症状が発現する場合には、地理的障害からは除外する(高橋伸佳:街を歩く神経心理学 医学書院, 東京, 2009, pp21-22)ことになるのです。ただし、高橋伸佳教授は、アルツハイマー病患者が道に迷う病態として、「少なくとも初期には『道順障害』的な要素が大きいようだ」(高橋伸佳:街を歩く神経心理学 医学書院, 東京, 2009, pp152-153)とも述べております。

 実は私自身も、一度だけ「道順障害」の体験があります。
 10年程前にフットサルをプレーしていたときの出来事です。その日はゴールキーパーをしており、シュートを阻止するため相手の足下に果敢にセービングを試みました(川島選手のように激しく)。そしてものの見事に頭部を蹴られ脳震盪を起こしてしまいました。すぐに意識は戻りましたが、20歳前後の頃の動きをイメージして激しいプレーなどするものではないと痛感しました。
 その帰り道、車を運転していて、通り慣れた道なのに道に迷ってしまいました。10分程同じような場所でうろうろし、何とか自宅にたどり着きました。私は元々は脳神経外科医ですから、「頭部打撲後6時間は脳出血発症の要注意時間」と熟知しておりましたので、冷や冷やしながら6時間経過するまで酒を飲んで時間をやり過ごし、意識が保たれていることを確認してから床につきました。

 「相貌失認」という不思議な症状があります。熟知している人の顔を視覚的には認識できないのですが、元々知っている人であれば、声を聞いたり、服装・仕草・髪型・ヒゲ・メガネなど顔以外の特徴から、誰であるのかを判断することができます。
 相貌失認の責任病巣は、右ないしは両側の側頭葉・後頭葉原因説が有力です。特に、街並失認の責任病巣の後方に接する右紡錘状回・舌状回が有力視されております。紡錘状回は、側頭葉の下面に位置しています(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A1%E9%8C%98%E7%8A%B6%E5%9B%9E)。舌状回(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%8C%E7%8A%B6%E5%9B%9E)は、後頭葉の一部です。
 責任病巣が近接していることより、相貌失認は街並失認と合併して生じることが多いです。
 「Mazzucchiらのレビューによると、相貌失認74例のうち約80%が男性であった」(高橋伸佳:街を歩く神経心理学 医学書院, 東京, 2009, p56)ことが報告されており、原因は明らかではありませんが明らかな性差があるようです。

 「鏡現象」(鏡像認知障害)という珍しい症状もあります。鏡現象とは、鏡に映った自分の姿を自分とわからずに話しかけたり、食べ物をあげようとしたりします。自分の鏡像にだけ話しかけ、鏡に映った他の人に話しかけることはまずないといった奇妙な現象です。
 北海道医療大学看護福祉学部臨床福祉学科の中川賀嗣教授は、文献において(http://www.rouninken.jp/member/pdf/15_pdf/vol.15_08-18-01.pdf)、「自己の鏡像認知が障害された後に、他者の鏡像認知が障害される(熊倉,1982)」ことが多いことを紹介しています。また鏡現象の責任病巣として、頭頂葉ないし前頭葉の機能不全である可能性を指摘しています(中川賀嗣:認知症性疾患の失語・失行・失認症状. 老年期痴呆研究会誌 Vol.15 92-96 2010)。
 若年性認知症を患ったクリスティーンさんは、鏡現象について以下のように語っています。
 「鏡の前を通ると、部屋の中に自分と一緒に知らない人がいると思って、跳び上がってしまうこともあるほどだ!」(クリスティーン・ブライデン:私は私になっていく─痴呆とダンスを 馬籠久美子・桧垣陽子訳, クリエイツかもがわ, 2004, p132)
 マルコ・イアコボーニは、自分の顔の認識(自己認識能力)には右半球の縁上回(えんじょうかい)が関与していることを裏づける実験結果を紹介しています(マルコ・イアコボーニ:ミラーニューロンの発見「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 塩原通緒訳, 早川書房発行, 東京, 2011, pp185-188)。
 縁上回(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%81%E4%B8%8A%E5%9B%9E)と角回は、頭頂葉の外側面にある脳回です。

メモ3:ミラーニューロン
 ミラーニューロンという用語が出てきましたね。ミラーニューロンについては、「ひょっとして認知症? Part1─物まねニューロンとアスペルガー症候群(その1)・脳がジェラートをほしがった(第442回)」において概略をお話しましたね。一部改変して以下に再掲しましょう。
 書店を歩いていて私が足を止めるのは、「認知症」、「脳科学」などの文字が目に飛び込んできた時です。
 2011年の秋、書店をぶらぶら歩いていて飛び込んできた文字は、『ミラーニューロンの発見「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学』という本のタイトルでした。著者はマルコ・イアコボーニ(塩原通緒 訳)、発行は早川書房です。本の帯には、「脳科学最大の発見」と書かれています。
 さて、このミラーニューロンとはいったいどのような細胞なのでしょうか。
 愛知医科大学精神科学講座の兼本浩祐教授が書かれた本のcolumnに簡潔にまとめられています(一部改変)。
 「ミラー・ニューロン(物まねニューロン)とは、たとえば自分が果物を手に取る時に駆動されるのと同じ脳部位が、対面している他者(ないしは他の動物)が果物を手に取っても駆動される現象を言う。原始的なものでは、一羽の水鳥が物音に驚いて飛び立つと、一斉に他の水鳥も飛び立つ現象などもこのニューロンの働きなのではないかと言われている。」(兼本浩祐:心はどこまで脳なんだろうか 医学書院, 東京, 2011, pp77-78)

 このミラーニューロンに関する最新の興味深い研究成果を自然科学研究機構生理学研究所(http://www.nips.ac.jp/)の定藤規弘教授が論文報告しておりますので以下にご紹介しましょう(一部改変)。
 「心の理論の神経基盤は、機能的MRIでよく研究されており、内側前頭前野、後部帯状回、ならびに頭頂側頭連合の関与が報告されている(Frith U, Frith CD:Development and neurophysiology of mentalizing. Philos Trans R Soc Lond B Biol Sci Vol.358 459-473 2003)。一方、共感の神経基盤として、mirror neuron system、および辺縁系の関与が示されてきた。Mirror neuronとは、他個体の目標志向的な動作の観察、ならびに自らの同様な動作の両方に反応する神経細胞のことで、サルの単一ニューロン計測により前頭葉F5領域に存在することが記載された(Rizzolatti G, Craighero L:The mirror-neuron system. Annu Rev Neurosci Vol.27 169-192 2004)。その後、人間の脳機能イメージング研究により、同様な振る舞いを示す領域が、頭頂葉と前頭前野に存在することが示された。他者の運動の知覚と、自己の運動を同一領域で符号化していると目され、mirror neuron systemと名づけられた。
 ヒトの向社会行動の発達においては、共感が必要であるが、必ずしも十分ではないとされている。社会交換理論によると、利他行動も、社会報酬を最大にするような行動として選択されるのであり、経済行動と同一の枠組みで説明できるとしている。実際、他者からのよい評判という社会報酬と金銭報酬は、ともに得られることによって報酬系として知られる線条体を賦活すること、さらに、他者からのよい評判は、寄付という利他行為の動機を増強し、その際線条体の活動が増加することが機能的MRI実験により明らかとなった。すなわち、19人の成人被験者に金銭報酬と社会報酬を与えた時の神経活動を機能的MRIで観察したところ、金銭報酬と自分へのよい評価は、報酬系として知られる線条体で、同じ活動パターンを示した。これは、他者からのよい評判は報酬としての価値を持ち、脳内において金銭報酬と同じように処理されているということを示している。一方、他人からの評判が、実際に行動決定に影響を及ぼすことを証明するために行った、寄付行為の決定を課題とする機能的MRI実験では、寄付行為の社会的報酬価を、他者の存在・不在によって変動させたところ、他人の目の存在によって寄付行為が増加し、行為選択判断の際に起こる線条体の活動と相関した。この結果は、さまざまな異なる種類の報酬を比較し、意思決定をする際に必要である『脳内の共通の通貨』の存在を強く示唆する。他方、社会的報酬に特有な活動として、内側前頭前野の活動がみられたことから、他者からみた自分の評価は、内側前頭前野により表象され、さらに線条体により社会報酬として『価値』づけられることが想定された。すなわち、社会的報酬には、線条体を含む報酬系と、心の理論の神経基盤の相互作用が関与していることが明らかとなった(Izuma K, Saito DN, Sadato N:Processing of social and monetary rewards in the human striatum. Neuron Vol.58 284-294 2008)。
 以上の知見から、共感にはmirror neuron systemの関与が、社会的報酬においては報酬系の関与が、そして両者に共通して心の理論の関与が想定される。いずれの系も、その神経基盤に関する脳科学的な知見が急速に蓄積しつつある。機能的MRIをはじめとする、人間の脳機能イメージング技術の急速な進展により、向社会行動の発達を、生物学的基盤に立ってモデル化し検証する機は熟してしる。」(定藤規弘:機能的MRIによる社会能力発達における神経基盤の解明. 脳外誌 Vol.23 318-324 2014)
 定藤規弘教授らの研究成果はウェブサイト(http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2008/04/post-36.html)においても閲覧できます。


 『英単語 難しいと右脳、簡単なら左脳』というたいへん興味深い研究結果があります(2011年2月24日付読売新聞)。
 難しい英単語を聞くと、右脳の活動が高まり、易しい単語の時には左脳が活発に働くことが、首都大学東京の萩原裕子教授らが小学生約500人の脳活動を計測した研究で分かったそうです。
 記事によれば、「右脳は音のリズムや強弱の分析にかかわっているとされ、研究結果は、英語を覚えるにつれ、右脳から左脳に活動の中心が移る可能性を示している。外国語の習い始めには音を聞かせる方法が良いのかなど、効果的な学習法の開発につながるかもしれない。萩原教授らは、国内の小学1~5年生が、難度の異なる英単語を復唱している時の脳活動を測定した。abash、nadirなど難しい英単語を復唱する時は、右脳の『縁上回』と呼ばれる場所の活動が活発になり、brother、pictureなど易しい英単語では左脳にある『角回(かくかい)』の活動が高まった。萩原教授によれば、新しい外国語を学ぶ時には、まず右脳で『音』の一種として聞くが、慣れるにつれ、日本語を聞く時のように意味を持つ『言語』として処理するようになるとみられるという。」
 外国語の習得能力の違いなどに関して、東京大学大学院総合文化研究科の酒井邦嘉教授は対談(岩田 誠、酒井邦嘉 他:Leborgne報告から150年─人間の本質をみつめたBroca(後編). BRAIN and NERVE Vol.63 1361-1368 2011)の中で以下のように語っています(一部改変)。
 「第2言語としての英語の文法性をどのくらいうまく、自然に学べたかということを100人ほどの人たちを対象に調べてみると、脳の45野の左右差がはっきりしている人ほど文法が自然に習得できるという非常に強い相関が得られました。すなわち、解剖学的にアンバランスで、右脳が左脳に対してあまり干渉をしないほど、外国語の文法の習得が自然にいくらしいのです。」
 「女性は言語以外で非常に高い能力があり、黙っていても相手が何を言おうとしているのかが分かる、といった『共感化』の能力が長けているそうです。」
 「口数の少ない人のほうが、はるかに言葉の『あや』や、行間を読む能力に長けていて、実際にペンを持ったときにはるかに深いものが書けたりすることでしょう。雄弁に書いたり話したりするよりも、語らないことの中にこそ非常に深いものが表現され得るわけです。そういったところに作家の能力が現れて来るのではないかと思います。」

 最後に脳梁離断術という「てんかん治療」の話をします。専門的な内容ですがちょっとお付き合い下さいね。
 難治性てんかんの治療法の一つとして、脳梁を切断する脳梁離断術という手術があります。この手術の対象になるのは、主として小児です。
 部分てんかんの二次性全般化発作という種類のてんかん発作は、一側大脳半球のニューロンが過剰に活動して、その神経興奮が脳梁などを経由して対側の大脳に伝播します。Wilson(脳神経外科医)らは、脳梁離断術がこのようなタイプのてんかん発作の軽減に有効であることを発見しました。
 さて、脳梁を切断すると極めて特異な神経症状が起きることが知られています。一例をご紹介します(岩白訓周、笠井清登 他:脳梁の解剖と機能. Clinical Neuroscience Vol.28 1177-1180 2010)。
 「左の鼻孔から花の香りをかぐと、左脳が匂いの情報を受け取る。脳梁離断術後の患者が左の鼻孔だけで匂いをかぐと、患者は何の匂いであるか言葉で答えることができる。しかし、右の鼻孔で匂いをかぐと患者は何の匂いか呼称できない。実際には右脳は匂いを感じ、識別することができるが、言語中枢が存在する優位半球と情報連絡が行えないため言語化できないのである。」

 ソニー・コンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャーの茂木健一郎博士は、著書(奇跡の脳の物語─キング・オブ・サヴァンと驚異の復活脳. 廣済堂新書, 東京, 2011, pp13-55)の中で、一世紀に一人出るかどうかわからない「キング・オブ・サヴァン」としてキム・ピークを紹介しています。
 キムは、生まれながらの脳梁欠損により「半球離断症候群」となっており、右脳と左脳が独立して機能しています。例えば、本を読むときには、右目と左目がバラバラに動いており、右目で右ページ、左目で左ページを別々に読むことができると紹介されています。

 「脳科学研究は医療や情報、電機など多くの産業分野に波及し、国内の関連市場は2025年に3兆265億円に達するとの見通しをNTTデータ経営研究所がまとめ」(2014年4月1日付日本経済新聞・科学技術)ており、現在の半導体市場に匹敵する見込みです。
 少々難しい話をしましたが、脳の神秘性・奥深さに触れ、脳科学にさらなる関心を持って頂けましたら幸いです。
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